南三陸町


華要害館
(本吉郡南三陸町志津川字内井田)



朝日館全体図
(東側より撮影)
調査中



県道172号線沿いにある標柱
 中世の小金沢将監の居城と伝えられている。「仙台領内古城書上」には「山城」として東西二十間南北二十間とあり「風土記」には「華要害館」として高さ四十五間東西南北二十間と記されている。
(標柱より)



調査中


旭館
(本吉郡南三陸町志津川字下保呂毛)



旭館全体図
(東側より撮影)
調査中



県道172号線沿いにある案内板
 奥州の実権が平泉藤原氏の手中にあった頃藤原秀衛の四男本吉四郎高衛は本吉庄の荘園管理のため、ここ朝日館を根拠とした(一,一八〇年頃)と伝えられ(古城書上、封内風土記)古来本吉金をはじめとする諸物産の重鎮となった所である。
 秀衛亡き後鎌倉軍との戦に破れ藤原一族の領地頼朝に帰す事となるがこの辺は下総国(千葉県)千葉常胤の一族が拝領したのではないかと思われる。戦国期(一,五〇〇年頃)からは葛西太守の分流「本吉氏」が本吉郡南を支配し朝日館を居城とする。以来天正十八年(一、五九〇年)豊臣秀吉の奥州仕置軍によって滅亡するまで葛西宗家をしのぐ勢いで気仙高田を初め本吉郡一帯に覇をとなえ君臨する。
 朝日館は延々数キロに及ぶ前衛陣地を配し本城のスケールの壮大さ(東西三〇〇米、南北五〇〇米)陣構えの堅固さはさすが本吉郡南の雄にふさわしいものである。
 標高七〇米の本城は南東北三方が、垂直に切り立つ土壇で防備され西方へ伸びる台地には深い掘り切り土塁が築かれる等絶妙な配備がなされている。本丸の広さは八〇米四方で如何なる乾天にも枯れた事はないという井戸がある。
 本吉氏の菩提寺として建造されたと伝えられる城下の大雄寺には朝日館最后
(原文ママ)の城主千葉大膳太夫重継の墓と言われる文禄元年(一,五九二年)「良元正鉄大居士」の碑が立っている。
(案内板より)



調査中


平山館(大平館・入谷城)
(本吉郡南三陸町入谷字大船沢)



平山館全体図
(東側より撮影)
調査中



県道172号線沿いにある標柱
 風土記には西条遠江守の居城とあり、遠江守は近江国(現滋賀県)豊原の城主芳情義正の家臣
であったが延徳元年(一五〇八年)に葛西家臣となったとある。
 規模は高さ五十八間、東西三十間、南北二十間と記されている。

(標柱より)



調査中




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