利府町


利府城
(宮城郡利府町森郷字館)



利府城全体図
(南側・県道仙台利府線より撮影)
 利府町の市街地の北にある、利府小学校の北側にそびえる「館山」が利府城跡です。
 現在は公園として造成されており、徒歩はもちろんのこと、車でも中段まで登れるようになっています。







案内板(上・中)と石柱(下)
 利府城ゆかりの留守氏の重臣村岡氏の居城でしたが、永禄十二年(一五六九)留守氏の後継者問題で伊達系留守氏側と対立、翌年、この城で戦い、滅亡したといわれています。
 その後、伊達政宗の叔父にあたる留守政景が二十年間この城を本拠地とし、戦乱の時代に活躍しました。
 なお、館山公園整備事業に伴う発掘調査では、平場から多数の掘立柱建物跡や平場をつくる際の整地、また、焼き物(陶器など)発見されました。

(案内板・上より)

 ここには、鎌倉時代(一一九二年から一三三三年)に、留守一族の有力者だった村岡氏の館(武士の屋敷)が築かれてあったが、村岡氏と留守政景との不和がもとで戦いとなり、村岡氏は滅亡した。
 政景は村岡氏の館を修築し、利府城と改めて、高森城から移り住んだ。
 それから20年後の天正十九年(一五九〇年)に秀吉に没収され、伊達家の領地になった。城址としての範囲は、八幡崎の丘陵までであったと伝えられているが、原形は、ほぼ昔のままで残っている。
 この城址は、岩切の高森城と共に自然の山をそのまま生かして築いた、いわゆる山城で、鎌倉時代でも古いものであり学術上貴重である。

(案内板・中より)

 高さ約90m(標高約100m)の独立形の全山が城館跡となっており、全体で東西200m、南北150mの大規模なスケールとなっています。
 最頂部は本丸で、面積は東西100m、南北50mの楕円形をしています。その南面一段下が二の丸で、面積は本丸とほぼ同等です。この辺りには芝生や桜などが植えられており、案内板や各種の記念碑なども建っています。
 本丸・二の丸の南面には二〜三段の壇が造られて形よい曲輪が広がっていますが、東・西・北の三面は断崖となっています。
 本丸からは利府町の市街地はもとより、仙台市の市街地まで見渡すことができます。
 一昔前の登路は南西にありますが、かつては東南部に接続していたように思われます。
「仙台領古城書上」には「
 森郷城」として、東西四十六間、南北二十八間とあり、利府森郷「風土記」には、硯石の「師岡館」として、縦五十間、横五十間との記録があります。



本丸から見た利府の町並み
「古城書上」、利府森郷「風土記」には、城主、師岡某で、四郎(伊沢四郎)家臣とあります。
 利府本郷「風土記」には「伊達上野の居館なるが故に「上野館」とも言う」とあります。しかし、これは岩切分の高森館と併わせて考える必要があると思われます。
 古記に「鶴巣山、留守職、伊沢氏の城となす。伊沢氏(留守氏、のちに伊達氏)は初め多賀城に、中頃は岩切に、最後はここ(利府城)に居る」とあります。
 なお、天正末期に伊達政宗が葛西大崎一揆征伐を行った際、一時期ここを仮の城とした、との言い伝えもあります。




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