大郷町


築館城
(黒川郡大郷町羽生字築館)


 
築館城全体図
(南側・農道より撮影)
調査中





標柱(上:登り口、下:本丸)
 中世岡山城居城と伝えられる。葦が城ともいい、南に古城跡があり空堀で仕切られ連結されて連結されている。旧品井沼南岸に連なる古城群の一つである。
(標柱より)


  調査中


大窪城
(黒川郡大郷町大松沢字論山)


 
大窪城全体図
(南側・農道より撮影)
調査中



登り口にある石碑



本丸跡にある標柱


二の丸跡にある石碑


二の丸跡にある案内板
 永正年中伊達氏北方地方の押さえとして宮沢掃部の居城として伝えられ、中世の豪快な城構えを象徴する、単郭重層式の古城である。
(本丸跡の標柱より)

 大窪城は、もと大松沢領主十五代大松沢掃部之輔衛実までの居城で、牛館大久保を改め大窪城となったのである。衛実という人は、天正6年に八十六で亡くなられているが、若い頃は、伊達家仙台藩士として二十九世慶邦公に仕え、明治元年会津の戦に、藩士三百人を率いて従軍も次いで白河口軍事総督を命ぜられ諸所の戦いに功労があった。会津の乱が平いで後は髪を剃って菩提寺である眞観寺の住職となり戊辰の役で亡くなった人々の冥福を祈り自らも僧侶として大往生を遂げられたのである。大松沢家の先祖は飯田八郎左衛門藤原吉実といって、今から約六百三十年前伊達家の一族として伊達郡宮沢を治めていたので後に宮沢を名乗ったが、この吉実の玄孫に当る宮沢時実が大松沢初代の領主で、その禄高は八百貫文であった。時実は伊達家十三世尚宗公の代(約四百九十年前)大崎葛西勢に備える伊達の「北の守り」としてこの大窪城によらしめ、大松沢一円を知行させたのである。次いで二代目は祐実で三代目は実家四代景実五代目は 実でこの人は天正年間(約三百七、八十年前)伊達家十七代独眼竜政宗公の時、相馬及び大崎の軍に従いその都度先鋒となり功をたて、更に文禄元年(一五九二年)には朝鮮の役に従軍し功労があり、又永く大松沢に住んでいたので政宗公から大松沢氏を称ずる命ぜられ、改めて伊達家の一族に列せられた。六代は定実七代頼実八代広実九代信実十代以実十一代文実十二代定実十三代 実十四代良実十五代衛実と続いたのである。
 尚城跡は高さが八〇メートルで頂上の壇東西百メートル南北四〇メートルの所が本丸で南西部の壇が二の丸三の丸を作り、中世の豪壮な城構えを象徴する単郭重層式の古城跡である。今は町立公園として地元町民の熱意と篤志家の風雨を厭わぬ尊い努力に依って着々整備され、町内外の老幼男女の憩いと懐古瞑想の場となっている。
(二の丸跡の石碑より)



城跡から望む南東方面


本丸跡にある石柱



本丸(二の丸より撮影)


本丸(全体図)


本丸にある井戸



二の丸跡にある石柱


二の丸跡にある神社



的場跡にある石柱


的場跡にある標柱


的場跡



曲輪跡


空壕跡と石標
 
調査中 


大楯城
(黒川郡大郷町山崎字竹の内)



花盾城・大盾城・小館丸館全体図
(南西側・築館城より撮影)
調査中



道路沿いにある標柱
 花盾城(西南)・小館丸館(東南)と連携し、これが本丸であると考えられる。中世葛西氏一族、金沢長門守の居城といわれ、黒川氏や大崎氏への備えとして築かれたものです。
(標柱より)



花盾城より望む本丸跡
 
調査中


小館丸館
(黒川郡大郷町山崎字畑中)


全体図については
大盾城を参照。
調査中



道路沿いにある標柱
 小姓館ともいう。これより西北の大盾城、花盾城に連携する。中世葛西氏一族、金沢長門守の居城といわれ、黒川氏や大崎氏への備えとして築かれたものです。
(標柱より)


 
調査中


花楯城
(黒川郡大郷町山崎字竹の内)


全体図については
大盾城を参照。
調査中





標柱(上:登り口、下:本丸)
 天文頃金沢長門守の居城と伝えられ、北から大館(原文ママ。「大盾」か?)、本丸、中館、小館丸と続く連郭式遺構で、各々空堀で仕切られた中世に典型的城郭である。
(標柱より)





平場(上・下とも)
調査中


館越城
(黒川郡大郷町羽生字館畑)





館腰城全体図
(北側・築館城より撮影)
調査中


  標柱・案内板等は確認できませんでした。


  調査中


石原北館
黒川郡大郷町石原字小屋場)



石原北館全体図
(西側・石原南館付近より撮影)
調査中



水田脇にある標柱


 



石原南館
(黒川郡大郷町石原字台山)



石原南館全体図
(東側より撮影)
調査中



畑脇にある標柱


 



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