東松島市(旧・鳴瀬町)


三分一所館
(東松島市浅井字大手)



三分一所館全体図
(北側より撮影)
調査中



道路沿いにある石柱
 館主は、中世から近世にかけて野蒜地区を拝領た三分一所氏である。
 この付近には、大手、上館、下館などの地名が今も残っている。

(石柱より)



調査中


小野館(梅ケ森館)
(東松島市小野字裏丁)



小野館全体図
(西側、鳴瀬川・吉田川対岸より撮影)
調査中



道路沿いにある案内板




本丸跡にある石柱(上下とも)
 往古、鳴瀬川に向かってのびる丘陵を利用して三つの館が隣接して築かれた。南から梅ヶ森館、桜ヶ森館、松ヶ森と呼ばれ(鳴瀬町史による)、古来より要衛の地であったことを偲ぶことができる。
 安永風土記(一七七三〜一七八〇)によれば、鎌倉五郎政景を祖とする長江太郎義景が、文治年間(一一八五〜一一九〇)に源頼朝より「深谷庄」を与えられこの地に居住した。その後代々引き続き、長江月監斎まで居城したことが記されている。
 江戸時代に入り、伊達家の家臣伊東氏、田村氏、三沢氏が小野を領し、最後は富田氏に引き継がれた。梅ヶ森館は「御館」とも呼ばれている。
 平成十五年の梅ヶ森館跡発掘調査では、斜面を削り落として険しくし敵が登るのを防ぐ切岸や大型の掘立柱建物跡が発見され、出土遺物から戦国時代の館跡であることが確認された。
 現在は、梅ヶ森館の一部が「御館山公園」となって城址の面影を残している。
(案内板より)

 桜ヶ森館(笹森)は文治年中、深谷の領主長江氏の本館であった。平山城の典型的なものである。
支館的梅ヶ森館(お館)は伊東氏、富田氏の館であった。
(小野館跡石柱より)

 江戸時代の封内風土記(小野本郷)に、五郎宮 在古塁祭景政呼」とある。景政は長江氏の祖の鎌倉五郎景政である。
(五郎宮石柱より)



本丸付近から見た鳴瀬川と小野の町並み


本丸付近
調査中


桜ケ森館
(東松島市小野字裏丁



桜ケ森館全体図
(北側より撮影)
調査中







松ケ森館
(東松島市小野字裏丁



松ケ森館全体図
(南側より撮影)
調査中







野蒜館
(東松島市野蒜字上山の坊)



野蒜館全体図
(東側・野蒜築港跡より撮影)
調査中






仙石線沿線からのぞむ城跡


城跡にある明神神社


城跡から望む太平洋



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