中田町


月ノ輪館(水越玉山館)
(登米市中田町浅水浅部玉山)



月ノ輪館全体図
(西側より撮影)
 国道342号線沿いと農道に挟まれた、浅部玉山の山頂付近にあります。





道路沿いにある標柱
(上:国道342号線沿い
下:西側農道沿い)

 月輪館に葛西氏の支館にして月輪六郎七郎兄弟の居城なり。迫の城主師門家臣にして六万石を領し天正年間標高一一一メートルの水越玉山島討嶺に築城し眺望絶景難攻不落。全域鉄壁といわれ現在も内濠外濠とも歴然と残る。月輪兄弟が迫合戦にて討死の悲報をうけると妹「おりい姫」はお付女中と共に城を脱出し山の中腹で自害した。「おりい権現」はその女中が懇ろに葬った地と伝えられている。
(国道342号線沿いの標柱より)

 月輪六郎・七郎兄弟の他には、城主は分かっていません。
 登米市豊里町にも同じく「月輪館」がありますが、関連性があるのかもしれません。
 「仙台封内風土記」には鳥討峰「玉山館」とありますが、城主は不明となっています。



本丸付近から見た仙台平野


月輪城本丸付近


本丸付近の道路沿いにある説明板
 月輪館跡は、標高約百十一メートルの水越玉山鳥討嶺にあり、その規模は東西三十間、南北六十間ある。往時の面影を留めるものは館を囲む壕だけで、内壕外壕は今も歴然と残っている。
 東は断崖絶壁、眼下に北上川を望み、難攻不落、天然の要塞といえる。言い伝えによれば、月輪六郎・七郎(一説に五郎・六郎)兄弟の居城で迫合戦の折、月輪兄弟討死の悲報を聞き、妹おりい姫は、お付き女中と共に月輪館を脱出し、山中で自害して果てた。
 「折居権現」は、その女中が、姫の亡骸を手厚く葬った地と伝えられている。
(本丸付近の説明板より)

 東西50m、南北80mの本丸跡に空壕がみられます。
 その見晴らしのよさから、主に物見を目的とした城であったといわれていますが、「チャシ」とよばれる古代の城跡であったという説もあります。


朝日館
(登米市中田町上沼長崎)



朝日館全体図
(西側より撮影)
調査中



国道342号線沿いにある標柱
 朝日館は、「洲崎城」ともいわれ、城址は約二反三畝で、源頼朝の家臣一栗入道一秀の居城であったが、この地が北上川氾濫により将来性がないとみて菅原右近利通(応安元年一三六八年一月二十二日没)に城を譲り玉造郡一栗村に移った。現在の地名「大手口」は当時朝日館の大手門があったあたりであると伝えられている。
(標柱より)



調査中


新井田新館(宝江館)
(登米市中田町宝江新井田館)



 宝江小学校の裏手、報恩寺の道を挟んだ向いに明確な館跡が見られます。
 現在、この付近一帯は「館」または「内館」と呼ばれています。




道路脇にある案内板
 新井田城は天正の頃、千葉掃部助、後に新井田新右衛門を城主とする城で、東西五十間、南北六十間の平城として有名であり、周囲は護城河「護館堀」により固め、下新井田には要害があり要塞として固めていた由緒ある「護城河」であり文化財として貴重な「お堀」である。
 仙台領古城書上に「新井田城、東西五十間、南北六十間、城主千葉掃部」とあり、又菊地素隆は「新井田城は天正の頃、千葉掃部助、後、新井田新右衛門」と補している。
 更に、新井田村風土記御用書出には「古館壱つ、但葛西新左衛門尉と申人城主之由承伝得共右年月等相知不申、一説ニ葛西家一門千葉掃部之助城主之所天正之頃落城之由承伝候、住古は新井田新右衛門ト申人居城之由ニ御座候処時代相知兼申候、本丸、東西五十間、南北六十間、今以三ノ堀迄右跡相残候事」とある。
 又、登米市史、宝江村沿革に「弘安六年(一二八三年)秋、森の上行寺、新井田の本源寺開創以前に新田重綱当地を領したるに見ればその由来古く、且、正応二年(一二八九年)九月千葉掃部、新井田を草創せり」とある。
(案内板より)


 城主として千葉掃部(掃部之助)、葛西新左(右)衛門、新井田新左(右)衛門の名があります。親族もしくは同一人物と思われます。



本丸跡にある標柱


東北部にある赤城神社
 「新田新左ェ門の居城、天正の頃千葉掃部館す」と昭和三十年建立の標柱に記されてある。登米市史宝江村沿革に弘安六年(一二八三年)秋、森の上行寺、新井田の本源寺開創以前に新田重綱当地領したるに見れば其の由来古く、正応二年九月城の鬼門に赤城神社を祀る。本丸は東西五十間南北六十間と言われ、楕円形に巡る内堀は干拓されているが、二重三重の堀は昔のままに保存され、永い歴史の面影を映し平城跡とし、貴重な存在として知られている。
 部落全体が城址の中にあり古老は表構え(表館)内構え(内館)と語り、剣術指南所・鍛冶屋敷・古碑等幾多の遺跡がある。
(本丸跡標柱より)


 水城としては、この地域においては規模・構造ともに随一と思われます。
 南に内館集落、北に報恩寺、東に赤城神社があり、これらに囲まれた200m四方の農地が城跡とされています。説明板は報恩寺の向側の道沿いにあります。
 直径約100mの円形、高さ2mほどの本丸中心部には、一本の胡桃の木と標柱が立っています。その周囲は水濠で囲まれていたと思われ、一段低くなっている所が当時の姿を偲ばせます。
 「仙台古城書上」に「
平 新井田城」として東西五十間、南北五十間とあり、「仙台封内風土記」にも「今以って三の堀まで右の跡相残候事」と遺構の規模の大きさを示す記述があります。


飯塚館(加賀野館)
(登米市中田町加賀野本町館)



八幡神社境内
 国道346号沿いにある、農産物直売所「愛菜館」の西側に八幡神社がありますが、この神社の境内一帯が城館跡といわれています。



八幡神社内にある標柱
 加賀野城ともいわれ、東西二十五間、南北三十間、城主は葛西の臣、飯塚修理父山城は天正十九年(1591)六月、葛西大崎一揆に佐沼城に拠ったが、七月四日伊達氏の攻撃を受けて戦死、加賀野城外竹林の中に葬られた。
(標柱より)

 城主の名として、「仙台古城書上」に飯塚修理とあります。
 「仙台封内風土記」にも「館屋敷、飯塚館」として同じ名が見られます。


   神社の脇に用水路がありますが、これはかつて周囲に張りめぐらされていた水濠の名残と思われます。
 「仙台古城書上」に東西二十五間、南北三十間とあります。


上沼城(千葉館・鶴ケ館)
(登米市中田町上沼八幡山)



上沼城全体図
(南側より撮影)
 上沼小学校から100mほど西の田んぼの中に、小島状の台地が見られます。
 ここが上沼城跡といわれます。




道路脇にある標柱
 この城址は上沼城又は別名鶴ヶ館と称し千葉備後守正傳<二万五千石、享徳元年七月十八日(一四五二年)病没した>の居城の城址である。爾後その子孫六代(約百四十年間)この地方を治めてあったが、七代目千葉備後守の時、天正十八年冬の頃豊臣の軍勢に攻められ落城した。当時城主二十七才であったが家臣・伊藤和泉祐國をたより鴇波村(現豊里町鴇波)に落ちのびて姓を「伊藤」と改めこの地に土着し、爾来「伊藤」と名乗って今日に至っている。
(標柱より)

 「仙台封内風土記」では城主として千葉豊後の名があります。
 また、「葛西真記録」の中に、天正十八年に佐沼城に立てこもった一揆勢の中に、上沼備中の名があります。



 城跡のほとんどが農地となっているため遺構はあまり見られませんが、西側に人の手によるものと思われる崖があります。
 高さ約7m、本丸は東西約80m、南北120m。北面に突き出た一角があります。
 
「仙台古城書上」には東西五十間、南北二十間「山 上沼城」とありますが、周囲の様子から考えるとむしろ水城に近い形式だったと思われます。
 また、かつて北側の窪地に沼があり、旱魃の年にも枯れることがなかったと伝えられます。ここから上沼の地名がついたといわれます。
 現在は、水神が城跡の一角に祭られています。


桜場城
(登米市中田町上沼館・浦)



城跡にある保昌院
 上沼高校の西側にある、保昌院という寺院の境内が城跡といわれています。





境内脇にある桜場城址石碑(上)と標柱(下)


建て直された標柱
(2007.12.8撮影)
 仙台領古城書上に桜場城、東西一八間、南北一六間、城主桜場新六郎とある。里見蔵人太郎義実、白川関の合戦で戦功が抜群で、土地の葛西対馬守に仕え、延元三年桜場城主に任命された。
(旧標柱より)

東西十八間、南北十六間、情趣里見義実(後の桜場氏)、建武二年(一三三五)後醍醐天皇の御代、鎮守府将軍北畠顕家卿に仕え奥州下向、白河関合戦に軍功有り、知行二千七百貫(二万七千石)を拝領、延元元年(一三三六)命ぜられて葛西武蔵守清貞に仕え桜場城にいる。二代城主実光、三代城主義勝、十一代城主新六郎帯刀、十二代城主義昌、一三代城主義国。
(新標柱より)

 「仙台古城書上」には城主桜場新六郎とあり、「仙台封内風土記」には桜場市右衛門とあります。両者は一族かと思われます。





桜場城近くにある「五輪塔」

(上:標柱、下:五輪塔) 
 第一〇三代、御土御門天皇、文明四年(一四七二)およそ今より五一二年前「桜場館に五輪塔建つ」と清水家文書に記録されている。「五輪塔」は昔、貴人豪族等の墓、又は供養等であり、この地に豪族が住んでいたものと考えられる。
(桜場「五輪塔」標柱より)


 現在は寺院や墓地になっているため、遺構はほとんど見当たりません。
 付近に高台が見当たらないことから、周囲に張り巡らした水濠が防御の要だったと考えられます。
 
「仙台古城書上」には「平 桜場城」として東西十八間、南北十六間とあり、あまり大きい城ではなかったと思われます。


黒沼館(高泉館・鶴ヶ塀城)
(登米市中田町宝江黒沼浦)



黒沼城全体図
(南側・B&G海洋センター駐車場より撮影)
 集落の東側、諏訪神社の西に位置します。
 現在は中田B&G海洋センターに隣接する公園になっています。



東側にある諏訪神社


公園内にある標柱
 黒沼城は黒沼館とも又、高泉館とも言う。寛永五年(西暦一六二八年)高泉長門定康が栗原郡太田村から黒沼村に移封、宝永二年(西暦一七〇五年)米谷に移封されるまで約七十七年間、定康、兼康父子二代に亘ってここに館した。本丸は諏訪沼に近く、沼を東に隔てて諏訪明神宮(諏訪神社)新羅神社がある、倶に高泉長門の勧請で、高泉家の守護神と仰ぎ又、曹洞宗龍谷印を改め鳳凰山冷松寺と称して高泉家の菩提所とした。なほ(注:原文ママ)高泉氏米谷に移封され寺もまた米谷現在の地に移転今日に及んでいる。
 高泉氏は足利氏の出目、従四位上在京太夫詮持の子で、出羽守持家が始めて栗原郡高泉城に居住し大崎殿と称し、大崎の執事であったが後、住地を姓とし高泉と改めた。黒沼城は東西十丁余、南北七丁余の平城で、往時、後は北上川が流れ、南に壕をめぐらした要塞であったという。
(標柱より)


 高泉筑後の居城とされていますが、大崎家の一門と推定されるので江戸期の人物と思われます。
 「葛西文書」には、富沢氏(現宮城県栗駒郡栗駒町居住)と寺崎氏(現岩手県花泉町居住)の間に確執が生じ、富沢氏が葛西宗家の征伐を受けたときの戦記の中に「黒沼鶴ヶ塀城主」として畠山下野守の名がみられます。また葛西氏も使用したとの記録もあることから、一軍事拠点として重用されていたと考えられます。



用水路となっている濠跡(東側)
 諏訪神社との間、城の東側から南側にかけて取囲むように水路が流れていますが、これが水濠の名残と思われます。
 直径約150mの円形、高さ2mほどの平城ですが、公園になっている現在では遺構はほとんど見あたりません。


石森古城
(登米市中田町加賀野本町)



石森古城全体図
(南側より撮影)
調査中



民家脇にある標柱
 この囲い一帯を古館という。青木家のあるこの場所には、高さ十三メートル、目通り五.二メートルもある一位(おんこ)の大木が庭前にあったが、先年大風のため倒れてしまった。古館の名称は、飯塚館に対するものといわれ、葛西氏以前の平泉藤原氏時代の館跡と思われる。
(標柱より)



調査中


高橋館(要害・北館)
(登米市中田町浅水浅部)



 浅部玉山の西側の辺りが「要害」と呼ばれていますが、この辺りが高橋城跡であるといわれています。
 現在は林と集落があります。



民家脇にある標柱
 仙台領古城書上に「東西四十間、南北二十五間、城主二階堂平内」とある。異本に「高梯城二階堂平助」と補している。城主高橋氏は平泉藤原氏と関係があり、葛西氏の家臣二階堂氏に滅ぼされたものと思われる。
 現在「要害」の地名が残る一帯が館跡と考えられる。館の西側に今も壕の痕跡が認められる。
(標柱より)

 書物によれば、二階堂と名乗る一族がこの地に住んでいたと思われますが、その素性・年代については不明です。



 浅部玉山にある峠の山頂部に高さ20m、80m四方の平場があります。
 付近は松林に囲まれており、西には窪地があります(ちなみに、この窪地に本丸まで続く長い橋がかかっていたことから、「高橋城」の名が付いたといわれています)が、かつてはその辺りを含めて館として使用されていたと考えられます。

 「仙台古城書上」には東西四十間、南北二十五間とあります。


浅部茶臼館
(登米市中田町浅水浅部玉山)



浅部茶臼館全体図
(西側より撮影)
 登米町との境、北上川西岸に浅部地区があります。
 この辺りを浅部玉山が南北に貫いていますが、南西部にある墓地の付近に浅部茶臼館があったといわれています。



道路脇にある標柱
 月の輪舘の出光で茶臼坊主が情報連絡に当っていたのではないかといわれ、付近から発掘調査の結果多数の縄文土器が出土した。
(標柱より)

城主等は不明です。



 浅部玉山の南西にある高さ5m、50m四方の台地と、道を挟んだ所にある墓地までが城跡と考えられています。


二ツ木館(双樹館・雙樹城)
(登米市中田町石森二ツ木)



二ツ木館全体図
(北側より撮影)
 石森地区の二ツ木集落にある小山が館跡といわれています。



民家脇にある標柱
 葛西氏の家臣二ツ木三五郎堯明はこの山に館し、石森館の後衛にあたった。
 本丸は東西一〇〇メートル、南北六〇メートル、標高三六メートル、三段の土壇が巡り西側に空堀跡が残る。山上に八雲神社が祀られてあった。天正一八年(一五九〇)主家葛西晴信が豊臣秀吉の奥羽仕置で所領を没収されるに及び、石森氏・小塚氏等と共に没落した。
(標柱より)


「古城書上」、「風土記」には二木三五郎が住んだと記されています。この人物の素姓や住んでいた年代は不明ですが、城自体が典型的な中世山城の構造なので、おそらくは葛西氏がこの地を支配していた頃の人と思われます。



本丸付近
「仙台領古城書上」に、「山 二ツ木城」として、東西三十間、南北二十六間とあります。
 高さ約50mの山頂にある平地が本丸跡といわれ、南の一角に八雲神社が祀られています。
 本丸の規模は、東西約100m、南北約60mと細長く、ここを中心として三段の土壇が周囲を取り囲んでいます。
 その中でも二段目西側の土壇が特に広く、30m以上の幅があることから、ここが二の丸であったと思われます。
 その西側は深い空壕が切られており、その先は断崖となっています。
 ほぼ全面が杉林に被われており、遺構は比較的良好な状態で残されています。


小塚館
(登米市中田町石森小塚)



小塚館全体図
(北側農道より撮影)
調査中



鳥居脇にある標柱
 葛西氏の臣、小塚織部安則の館址と伝えられている。天正十八年(一五九〇)小田原不参のため、主家葛西氏と共に没落した。
 この小塚山は標高二十七メートル余、山の西部が二の丸、その東の高いところが本丸跡とされている。近くに神明社があり祭神は大日霊神で、小塚氏の守護神であった。
(標柱より)



本丸にある神明社
調査中


笠原城(石森城)
(登米市中田町石森)



笠原城全体図
(東側農道より撮影)
 県道4号線沿いにある石森集落の東北部に石森小学校がありますが、その裏に高さ20mほどの小山があります。
 ここの頂上部に石森城があったと伝えられます。



石森小学校そばにある案内板
 文治の初(1185〜1186)平泉藤原氏の臣猪塚修理が居住したが藤原氏没落後承久三年(1221)葛西氏の一族石森右近将監康次が居住した。天正十八年(1590)主家葛西氏が豊臣秀吉の小田原出陣に参陣しなかった左近晴康の代所領を没収され没落した。天正十八年(1591)遠藤出雲守高康が居住、寛永八年(1631)関野四郎左衛門が居住した。
 寛永十六年(1639)伊達氏の家臣笠原出雲盛康が江刺郡角懸村から移居。天和元年(1881年)の古地図に画かれている環境がめぐり、当時を忍ぶ護城河である。城跡屋敷の北西方には笠原家の廟所があり、その西に守護神である石大神社が祀られている。
 笠原出雲盛康が寛永十六年(1639)に建立したとつたえられている。

(案内板より)

 葛西家臣である石森大学の居城と伝えられます。
「葛西真記録」には石森兵部、同讃岐の名がありますが、おそらくは一族の者であろうかと思われます。
 藩政時代になると、元大崎家臣の笠原氏が伊達家の顕職としてこの地方に知行地を賜り、この城に住んだといわれています。


   小学校の裏山全体が城郭であったと思われます。
山頂の平地は現在民家の敷地となっており、これまで数百年にわたって人の手が加えられてきたので、遺構はあまり残っていないようです。
 小学校からの登り口にみられる桝型の土塁や、北側の竹林の中にある土壇、また東側畑地の中に見られる長方形の広場や、南側の山裾の下を流れる水濠跡と思われる水路などが散見されます。
 屋敷跡としては東西約120m、南北約70m。また城郭全体としては東西約200m、南北約150mにも及び、かなり大きな規模であったと思われます。


弥勒寺城
(登米市中田町上沼弥勒寺)



弥勒寺城全体図
(東側・北上川対岸より撮影)
調査中


  調査中



国道342号沿いにある標柱


弥勒寺


空堀と本丸方面


二の丸
 弥勒寺は、修験道の開祖・役の行者により七世紀ころ草創され、弥勒菩薩は弘仁年間(八一〇〜八二四年)空海が欧州巡錫の祈り安置したと伝えられる。長徳年間(九九五〜九九九年)に再建され、山号を長徳山弥勒寺と号す。弥勒菩薩(如来形)坐像<昭和二十八ん年八月二十四日県指定>は、仏師春日の作、
 脇仏・阿難尊者立像は運慶、迦葉尊者立像は湛慶の作と伝えられる。
 宗派は真言宗智山派。毎年八月一五、一六日には、弥勒尊大祭が盛大に開催されている。
(標柱より)



調査中


小島館
(登米市中田町浅水小島)



小島館全体図
(西側農道より撮影)
調査中



町道沿いにある標柱
 別名、水越館ともいう。一書に水越播磨の居城と記録されているが、その人物の年代、素性などについては不詳である。
 小島館は、平山城の形式をもっており、現在山内貞行氏宅の西隣の丘にあり、南北に五十米ほどの細長い本丸跡が残っている。東西にも相当の長さがあったが、両面から削られ、わずかしか残っていない。本丸跡の片隅には三宝荒神社が祀られており、本丸を中心に三段ほどの広い土壇がとり巻いている。下段は深い杉林となり、その下には古い墓石が散在している。なお、以前は土塁が完全な形で残っていたが、今はその外骸がわずかに北面に見られる。

(標柱より)


  調査中


大泉館
(登米市中田町上沼大泉)



大泉館全体図
(南側堤防より撮影)
調査中



道路沿いにある標柱
 大泉村に山城として「大泉城」があった。東西十五間、南北三十間。
 地域は、東は北上川に面し、北は断崖絶壁、西は大泉山に続き、南は大泉平野を臨み、周囲に空堀、土塁をめぐらし、当時は要塞堅固な山城であったと推される。
 城主深堀隠岐は葛西氏の家臣で、天正十八年(一五九〇)葛西氏没落とともに落城。
(標柱より)



長承寺
調査中


黒沼代官所
(登米市中田町宝江黒沼)



黒沼代官所全体図
(西側・県道201号線より撮影)
調査中



県道201号線沿いにある標柱と案内板
 藩政時代、年貢の収納、訴訟の受理、治安の維持など民政一般の監をした所。
(標柱より)

 代官所とは、藩政時代において民政を掌った場所であり、最も農民に接したところです。仙台藩では領内の二十一郡・九七〇ヶ村を、「南方、北方、中奥、奥」に四分割して郡奉行を配置し、さらにその配下のもと、領内は、十九の代官区に分けられ、代官がおかれておりました。黒沼は中奥に位置しますが、代官所は、もともと街道筋の交通の弁のよい宿場町が選ばれました。
「登米郡黒沼はもと高泉氏(二七〇〇石)が住居した。家中屋敷六七軒、本町と新町からなり、石森へ一里十二丁(約五.二キロメートル)、寺池へ二里(約七.七キロメートル)、西郡へ一里二十四丁(約六.五キロートル)、佐沼へ一里十二丁(五.二キロメートル)で本吉南方、登米郡佐沼七ヶ村の代官所がおかれた。」(仙台郷土研究会長、佐々木久氏「仙台藩代官所考」より)
 代官所は、代官・郡方横目・郡方役人等の藩出身の役人と農村出身の大肝入・肝入・検断・組頭の地方役人で構成されておりました。また代官所は一つの敷地内に代官会所、御割会所(出納)、横目会所(裁判)大肝入会所の四つの室に分かれており、この外にも、奉行、代官の宿泊施設もあったそうです。代官の職務は年貢の収納、訴訟の受理、治安の維持など民政一般を掌りました。なお、黒沼代官所は、寛政九年(一七九七)をもって閉鎖されました。

(案内板より)


 
調査中


上沼古館
(登米市中田町上沼浦沼)



上沼古館全体図
(西側より撮影)
調査中



道路沿いにある標柱
 昔から古館屋敷と呼ばれ、当地域でも稀な旧家である。この地を持つ小野寺氏の祖、小野寺太郎左衛門信孝は延宝二年(一六七四年)死亡。信孝の曽祖父が初代の城主(年代城名とも不明)で、二代を経て三代に至り落城した。(年代不明)難を逃れて某地で百姓となり、再びこの地に戻り土着したと言い伝えられている。小野寺氏宅の裏手あたりが城館と言われている。
(標柱より)


 
調査中


伊神城
登米市中田町宝江黒沼十文字



調査中



民家脇にある標柱
調査中



国道398号線沿いにある標柱
 郷土の先覚者である第四代伊神城の舘主佐藤甚十郎昆明(ひであき)(号は神城(しんじょう))は、若くして勉学に励み、目々沢天遊や大槻磐渓に従って、経史の大義に通じ詩や書画を能くした。諏訪神社に奉納されている絵馬は有名であり、又近隣の名家にも書画など多く残されておりおります。「筆塚」は、昆明が文政十一年の秋(一八二八)に使い古しの筆を埋め供養した塚で、中田町でただ一つの退筆塚と言われています。
(標柱より)


長谷館(明神館)
登米市中田町浅水長谷山



長谷館全体図

(北東側・米谷大橋たもとより撮影)
調査中



道路脇にある標柱
 この地に「明神館」があったので、この一帯を館山という。仙台領古城書上には「明神城は山館で東西三十六間南北三十六間で瀬川左近の館したところ」とある。明神館の名称は館主瀬川氏が氏神として信仰した紫大明神(紫神社)が祀られていることによる。水越長谷山に所在したので「水越館」「長谷館」ともいう。館主については瀬川右近などの説もある。
(標柱より)



本丸跡にある長谷山配水池



本丸跡にある紫大明神
調査中



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