〜弁護士は元ゲリラ部隊小隊長〜
武藤鬼一

[1838〜1902(天保九年〜明治三十五年)]


衝撃隊旗(毛利コレクション所蔵)

 末の仙台藩に存在した奇襲部隊・衝撃隊
 この部隊は、当時、軍事方探偵周旋方として南奥州諸藩の情勢を探っていた仙台藩士・細谷十太夫直英によって結成されました。
 戊辰戦争の頃、仙台兵は新政府軍のみならず味方の奥州諸藩からも「ドン五里兵(大砲がドンと鳴ったら五里も逃げ去る兵)」と呼ばれ嘲られており、そんな自藩兵のあまりの不甲斐なさに失望した細谷は、自ら博徒・猟師・農民らを集めて衝撃隊を作り上げました。
 撃隊は、隊士たちが皆一様に忍者さながらの黒装束に身を包んでいたことから烏組の異名をとり、隊旗にも翼を広げて飛ぶカラスの姿を描いていました。
 また隊長の細谷自身も、背に三本足の八咫烏が刺繍された陣羽織を着用し、その身近には常に一羽のカラスを従えていたと伝えられます。

 らは夜陰にまぎれての諜報活動や奇襲攻撃を得意とし、猟師の出身者などは山野を我が家の庭のごとく駆け回り、博徒たちは日頃の喧嘩出入りで鍛えた腕と度胸で敵陣に斬り込みをかけたりと、各々の得意分野でその特技を発揮して薩摩・長州をはじめとした新政府軍を散々に苦しめました。

 その戦いぶりは、十六人の棚倉藩士で結成され十六ささげと呼ばれた誠心(精神)隊とともに、

「細谷烏と十六ささげ なけりゃ官軍高枕」

 などと俗謡にも謡われるほどでした。
 してその衝撃隊の一番隊々長として一隊を率いていたのが、武藤鬼一なる人物でした。
 彼は天保九年(1838)九月十九日、岩代国安達郡鈴平村(現福島県二本松市)に生まれました。戊辰戦争の際は衝撃隊に加わり、白河、三春、棚倉、二本松、そして仙台藩で最も多くの戦死者を出した激戦地・旗巻峠など、数々の死線をくぐり抜けてきました。
 に白河奪回戦では、味方の兵が須賀川に退却していた情報が伝わらなかったために大変な苦戦を強いられることになりました。
 慶応四年(1868)七月一日の大原口中山の戦闘において、衝撃隊は仙台藩士・大立目武蔵率いる震撃隊と共同戦線を張っていたのですが、頼みの援軍はすでに退却していたため戦況は不利になる一方。隊長の細谷は隊士を叱咤しつつ戦いましたが、もはやこれまでと思い、死を覚悟して斬り込みをかけようとしました。
 このとき武藤と軍監の安藤忠吉は、死にはやる細谷を押しとどめて三人で阿武隈川に飛び込み、辛うじて九死に一生を得ることができたのです。

 かし、そんな衝撃隊の奮戦も、すでに新政府軍に傾いていた時勢を食い止めることはできませんでした。
 明治元年(1868)九月十日、仙台城中にて激しい討論が行なわれた末、仙台藩の降伏が決定されました。

 仙台に引き上げた衝撃隊は一時仙台城下にある龍宝寺に駐屯していましたが、城下に兵を置いておくことを憚った細谷は隊士を引き連れて加美郡王城寺村(現宮城県加美郡色麻町王城寺原)に赴き、その地の開墾を始めました。

 藤も他の隊士らと共にこの開墾に参加したのですが、元々無頼の徒が集まってできた衝撃隊であるがゆえに、彼らの中にはこの生産活動に馴染めなかった者も多く、当然成果も芳しくありませんでした。
 さらに追い討ちをかけるかのように、隊長の細谷が戊辰戦争の時に新政府軍に敵対した罪で追われる身となったのです。細谷は王城寺原を引き払い、佐幕派狩りの目から逃れるために仙台城下の片平丁にある鮎貝太郎平邸へ身を潜めることにしました。

 出立の日を前にした細谷と隊士らが仮小屋に集まって別離の宴を張っていたそのとき、夕焼け空に無数のカラスが群れをなして飛んでいました。武藤はこの時の様子を手控えに書き記しています。彼の目には夕闇の向こうに飛び去っていくカラスの群れが、明日から離れ離れになっていく、そしてまた戊辰の役で志半ばに斃れた烏組の仲間たちの姿と重なって映ったのでしょうか・・・
 の後、名を「利直」と改めた武藤は、戊辰戦争当時の戦いぶりが認められ宮城県士族に列せられました。そして明治の世となってからは、刀槍をペンに持ち替え能吏としての道を歩み出しました。
 明治七年(1874)に水沢県等外一等出仕、翌八年には聴訟課に配属となりました。そして明治九年(1876)四月、宮城県が行なった第一回代言士(現在の弁護士)検査においてただ一人合格し、同年六月一日付で「宮城上等裁判所、宮城裁判所ニ於テ代言差許候事」の免許状を受け、ここに宮城県初の免許代言人が誕生しました。
 言人という職業自体は藩政時代からあったものですが、改正代言人規則が定められたことにより代言人制度が法的に確立されたのです。しかしながら、官尊民卑の意識が強かったこの時代の代言人の地位は低いものであり、裁判所における待遇も昔と変わらず、また改めようともされませんでした(もっとも、かつての代言人の中にはその立場を利用して私利に走る者が少なくなかったことも、地位が低く見られる原因の一つでした)。
 仙台においてもその状況は変わらず、裁判所には代言人の控室はなく一般の訴訟関係者と同じ待合室を使用しており、裁判の場では代言人は姓を呼び捨てにされていました。また金銭面においても、仙台の代言人の謝金は全国平均よりも低いものでした。
 さらに代言人に対する裁判所の処分も厳しく、些細な理由で多くの人が処罰を受けました。事実、武藤も明治十五年(1882)六月、宮城控訴裁判所において原告代理人の発言中に勝手に発言したという理由で譴責処分を受けています。

 かし、代言人たちもただ黙っていたわけではありませんでした。
 明治十三年(1880)七月二十六日、代言人の社会的地位の向上や待遇の改善を目的に仙台代言人組合が結成されました。会員は30名で会長は遠藤温、副会長は武藤と塚本四素が務めました。遠藤も塚本も戊辰戦争を生き延びてきた者たちで、塚本は元仙台藩刑法方の役人でもありました。この頃仙台で活動していた代言人の大半は、彼らのような士族たちだったのです。

 やがて彼らの地道な活動と努力は実を結び、代言人の地位は次第に向上していきました。
 明治二十一年(1888)三月三十日の奥羽日日新聞に載った記事には、

「当地諸裁判所及監獄署等に至って代言人を厚遇せられ裁判所の如きは更に代言人控室を一般人民と区別せられし程にて今回は従来の氏名呼棄法を廃し殿付と為したり」

 とあり、当時の代言人の待遇改善がいかに珍しかったかを物語っています。
 に仙台から石巻へ移り住んだ武藤は、その地においても代言業務に尽力し、また石巻地方の代言人たちの中心人物となっていきました。
 そしてまた、武藤は当時盛んだった自由民権運動にも身を投じています。民権運動に関する団体は、宮城県内で判明しているだけで40以上もあったといわれ、石巻にもいくつかの団体がありました。
 その中の一つに伊沢作治、佐藤清吉(譲)、阿部精一郎といった代言人らが明治十六年(1883)六月に設立した精里会(のち『刑法会』と改名)がありました。武藤はこの団体に加わると、当時の代言人の多くがそうであったように、その巧みな弁舌と豊富な知識で指導的立場となっていきました。

 の後、明治十九年(1886)八月十一日に公証人規則が公布されると、宮城県内からも10名程の代言人が公証人業務を兼任しようと仙台始審裁判所検事局に願書を出しました。しかし明治二十年(1887)六月、代言人が公証人を兼ねることを禁止されたため、ほとんどの者が公証人となることを断念しました。
 しかし、この時ただ一人だけ公証人となることを決意した人物がいました。それが武藤だったのです。

 武藤は明治二十二年(1889)五月に上京して公証人事務業務の伝習を受けた後、同年七月に石巻区裁判所管内公証人となりました。かつて宮城県初の代言人となった武藤は、公証人としても県内第一号の人物となったのです。その後、武藤はかつての勤務地である水沢県庁があった登米区裁判所管内の公証人も兼任しました。
 治三十五年(1902)五月二十七日、武藤は六十四歳でこの世を去り、石巻市鰐山にある共同墓地に葬られました。
 戊辰の役の際には、敗れゆく奥州諸藩のために衝撃隊士として闇夜の中を駆け回り、明治の世となってからは、代言人として力なき人々のために尽くした彼の心の奥底にあったもの、それは強者に対する反骨と弱者に対する慈悲の心だったのではないでしょうか・・・

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