東和町


御館
(登米市東和町錦織山居沢)



御館全体図
(北側・北上川堤防より撮影)
 国道346号線沿いの丘陵地にある錦織小学校の辺りが館跡です。
 錦織集落のほぼ中心部にあります。




館跡(現錦織小学校)


小学校前にある説明板
 伊達の重臣大内氏の居城である。
 大内氏の祖先は百済国の聖明王の第二王子琳聖太子で周防国大内村(山口県山口市大内)に居城していた。
 その後大内氏は石橋氏の家老として若狭国(福井県)小浜の居城していたが応永十二年(一四〇五年)石橋氏が福島県安達郡に四本松城を築いたとき大内氏も小浜城を築いて居城した。
 天正七年(一五七九年)石橋氏に代って安達郡の領主となった大内定綱は天正十七年伊達氏に臣従し八千石を賜り一族に列し岩手県(前沢町)に居住した。
 正保元年(一六四四年)前沢より西郡に依封された大内重綱は初め古館に居城し西郡の開発に当った。
 その事蹟として宝林寺重願寺の移転、出雲神社の勧進、町裏安場堤防の築造、城下町の造成、家臣屋敷の移転等数々の事業を行い今日の西郡の基礎を造った。
 この間百年の歳月を要した。
 元文五年(一七四〇)に至り新たに館を築き移転し明治維新まで約百三拾年間大内氏が居住した。
 館は標高百四拾八米その規模は東西百五拾米南北六拾九米の山城である。
 人々は御館館山と呼び館に通じる坂道を御表坂御裏坂と呼んでいた。
 昭和七年この御館跡に錦織小学校が建てられた。
(説明板より)





上:表坂
下:裏坂
調査中


湖水城(沼城)
(登米市東和町錦織内ノ目)



湖水城と機織沼に来た白鳥
(東側より撮影)
 錦織郵便局の東側、国道346号線(旧西郡街道)の北側にある、田んぼの中の島状の台地が城跡です。城跡には現在、工場跡地と民家があります。
 城のすぐ東側には、城名の由来となった機織沼と呼ばれる沼があります。






西郡新左衛門夫妻の碑(上)
と標柱(下)



国道346号線沿いにあった
標柱と城跡(後方)
 天正一八年(一五九〇)湖水城主西郡新左衛門は葛西氏の命をうけ、七百騎の総大将として現在の桃生郡河南町に出陣し、翌天正一九年(一五九一)深谷の役で伊達氏の軍と戦い討ち死したのである。その塚が同地高橋家の屋敷内にあり、氏神として祀られていた。当時訃報に接した夫人は城の東方の沼に投身夫の後を追った。この沼の東の丘に村人が夫人の供養に建てた祠がある。昭和四十八年錦織の錦寿会が、離ればなれに氏神として祀られていた旧邑主ご夫妻の霊をゆかりの地弁天山お迎えし碑を建立した。
西郡新左衛門夫妻の碑の標柱より)

 「仙台封内風土記」には城主西郡新右衛門とありますが、「葛西真記録」では新左衛門とあり、その外にも西郡左馬之助、亀卦川新衛門、千葉胤元などの名も見られます。


   東西約300m、南北約100m、高さ約4m。土壇が三段ほど残っています。
 西側にある北上川の堤防がなかった頃は、この付近一帯は湿地帯であったとされ、大雨などがあると北上川の水が流入し、孤島のようになっていたと考えられます。機織沼はこの時の名残と思われます。
 これらのことから、この城は舟運に頼るところが大きかった水城と考えられます。
 「仙台古城書上」には、「
山 沼ノ城」として東西二十間、南北四十間とありますが、山城とは考えにくい地理状況のうえに、東西と南北の数値が逆になっています。


洲崎城
(嵯峨立城・岩渕館・洲前城・渕峯城)

(登米市東和町錦織岩ノ沢)



洲碕城全体図
(南側より撮影)
 北上川沿いを走る県道189号線の途中から、荒神山と大嶺山の間の道を東に入ると盆地が現われます。その盆地にある普慶院という寺の裏山に城跡があります。



道路沿いにある標柱
 風土記御用書出に「城主岩渕信濃」とある。三つの平場と、それらを区切る空掘及び段が明瞭に認められる。渕崎城とも呼ばれている。
(標柱より)

 「葛西真記録」には嵯峨立右近の居城とあり、「仙台古城書上」には城主岩渕信濃とあります。その他にも、岩渕信濃の名を嵯峨立筑前としている文献もあります。



 普慶院の上の方にある墓地が本丸(約50m四方)、東側に二の丸(東西約80m、南北約50m)、さらに嵯峨立小学校の方へ向かって三の丸が続いており、それぞれが深い堀で分断されている形になっています。
 北および西側は断崖となっており、南面の畑地には数段の土壇の跡が見られます。
 西側には道を挟んで熊野神社がありますが、かつては北上川の一部がここを通って盆地の中に流れ込んでいたと思われます。
 全体の規模としては、東西約80m、南北約200m、高さ約30mで、北上川沿いにあるものの盆地の陰に隠れて川筋からは分かりにくくなっています。
 「仙台古城書上」には「
山 渕崎城」として東西十二間、南北二十三間とあります。


鶴尾城
(登米市東和町米谷大沢)



鶴尾城全体図
(南側・国道346号線より撮影)
 国道346号線沿いの大沢集落にあります。
 現在は民家と畑があります。



町道沿いにある標柱
 葛西氏の家臣大沢四郎修理の居城と伝えられている。中世の城館跡である。
 中心部と考えられる平坦部の北は堀切によって区画され南には土塁がめぐる。
(標柱より)

 「加藤文書」には葛西家臣大沢刑部の居城とあり、また森合城主千葉対馬の子・佐之が領したとも書かれています。
 天正十二年六月、米谷・西郡氏の連合軍に攻められ、森合城とともに落城したと伝えられます。
 佐之は本吉郡の歌津に逃げ、そこで四郎兵衛と称し庶民となったといわれます。



 大沢集落の東側に張り出した山の稜線に城跡があります。
 東西約80m、南北約170m、高さ約80mの細長い形をした連郭式の城で、最高部が本丸と見られ、東西約50m、南北約30mの台地となっています。
 本丸と背後の山々とは、空濠によって分断されています
 本丸の南にある一段低くなった部分が二の丸です。
 南面は土塁に取囲まれています。
 「加藤文書」においては「鶴尾城」として山頂東西三十間、南北三十三間、二・三の曲輪段々ともに百間、虚堀二重にして登坂は百間なりとかかれており、これからも規模の大きさと堅固な様子がうかがえます。


森合城
(登米市東和町米谷森合)





森合城全体図
(上:北側・国道346号線沿いにある”石の鼻舟場”より撮影、
下:南西側・二股橋付近より撮影
 森合集落の北側、雷神山と呼ばれる三角形の独立した小山に城跡が見られます。

 左の写真にある石の鼻舟場址は、葛西氏支配時代から藩政時代を通じて栄えた船着場です。
 狼河原村(現東和町米川地区)・鱒淵村(現東和町鱒淵地区)・大籠村(現本吉町大籠地区)などから搬出された木材・鉄・煙草・生糸など多くの産物は、ここから「ひらた船」で二股川・北上川を下り石巻に運ばれた後、それぞれの問屋に渡されて仙台や江戸などに運ばれました。
 仙台藩にとっては重要な船着場の一つでした。






県道202号線沿いにある標柱
 中世の城館跡である。葛西氏の家臣、千葉土佐の居城と伝えられている。永録年間に米谷左馬尉と西郡新左衛門の連合軍に破れる。千葉土佐は当地方に南蛮流製鉄法を広めた祖である。
(標柱より)

 「加藤文書」には、大須賀四郎胤幸十三代千葉対馬胤信の一子左之がここに住むとあり、大篭地方(宮城県と岩手県の東側県境)の製鉄の祖と言われる烱屋(どうや)八人衆の一人、千葉土佐が住んだともいわれています。
 対馬と土佐は、この地方に勢力を誇った米谷氏の系列である亀卦川千葉系の一族もしくは同一人物と思われます。
 天正十年、土佐らと米谷の亀卦川氏との間に確執が生じたとき、米谷氏およびその弟である西郡氏らに攻められて敗走した土佐は、本吉郡の歌津に隠れていたとの記録が残っています。この確執は一族の利害関係によるものと思われます。
 土佐はキリシタン製鉄で有名な豪族でもあります。




 東西約120m、南北約100m、高さ80mと規模は小さいながらも、峻険なスリ鉢状の山の北西側を二股川で囲まれ、堅固な要害であったことがうかがえます。
 山頂には直径50mほどの広場があり、雷神が祭られています。このあたりが本丸と思われます。
 本丸を中心に数段の壇が見られ、北側には尾根の突出部が東西方向に台地を造っています。
 北方にある大沢館(鶴尾城)と同じ一族の者が、二股川と西郡街道の要所を南北から擁する形で抑えていたと考えられます。


楼台城
(登米市東和町米谷宮ノ沢)



楼台城全体図
(西側より撮影)
 県道202号線の東側、高齢者コミュニティセンターの向いに鳥海神社がありますが、その辺りの山地が城跡です。
 本丸まで続く山道があります。




鳥居の脇に倒れていた標柱
 楼台城は葛西の家臣伊藤豊後の居城であると伝えられている(葛西真記録には楼台城主平三郎和泉とある)。
本丸跡は畑地になって北東に三・四段西部は六・七段になっている見事な城跡である。本丸跡から槍一振出土している。
本丸の西下に非常用の井戸の跡が今も残っている。

(標柱より)

 「仙台古城書上」では城主として伊藤豊後とあり、楼台和泉の後に住むとあります。
 「葛西真記録」には「豊県(とよま)良代」青梅尾張守城主とあります。






鳥海神社
 独立した山のように見えますが、東西に長く迂回しており、三段の起伏を経て奥の山々に連なっています。
 城跡の最西端には鳥海神社が建立されています。
 中央部の最高所に約70m四方の本丸跡があり、西側の平地には約70m四方の二の丸、東側には窪地を挟んで長方形の三の丸があります。
 山全体が開墾されており、農地となっています。
 最西端から奥の三の丸まで東西約500m、南北約200m、高さ約120mの大型の城跡です。
 「仙台古城書上」に「良代城」として東西百四十六間、南北二十五間とあります。


高古屋城
(登米市東和町米川東上沢)



高古屋城全体図
(南側より撮影)
調査中



国道346号線沿いにある標柱
葛西家臣・千田甲運の居城で百五十米高所にある山城である。水平の堀・峰越の堀・斜めの堀などの多くの空掘がめぐらされている。珍しい城である。東下には広い馬場跡がある。
(標柱より)




調査中


若草山城(若宮館)
(登米市東和町米川東綱木)



若草山城全体図
(南側より撮影)
 国道346号線と456号線の分岐点にある、米川小学校の裏山の一帯が館跡といわれています。





若草神社の鳥居と標柱
(上:国道346号線沿い
下:国道456号線沿い)

 この若草神社の森は小山になった独立丘である。今は若草神社の境内になっているが、丘全体が一つの館跡になっている。中世の館跡と思われる。
 頂上の本丸と思われる所に現在若草神社が祀られているが、このまわりには土塁の跡、三段の土壇が北西の杉林にはっきりと残っている。
 二股川が自然の防御線となった館であったと思われるが時代並み(原文のまま。「並びに」の誤記と思われる)に館主等は一切不明である。
(国道456号線沿いの標柱より)


 城主は不明。古い時代の館跡と思われます。
 ただし、二股川および西郡街道の要所に構えられた山城とみられ、二股川の対岸にある鳩岡城の伝城(支城)として、この地を米谷氏が支配していた時代には重きをなしていたと考えられます。



若草神社
 東西150m、南北70m高さ30mほどの小山の山頂に若草神社が祀られており、このあたりが本丸跡と思われます。
 ここを中心として、三段にめぐる土壇が北西の杉林に見られます。
 また、国道456号線を挟んだ西側に、八幡神社および旧米川中学校跡地のある丘がありますが、その辺りもかつては城郭の一部として用いられたと考えられています。


鳩岡城(畑沢館・旗沢館・旗竿館・旗崎館)
(登米市東和町米川中嶋)



鳩岡城全体図
(西側・若草山城より撮影)
調査中



国道346号線沿いにあった標柱




鼎城(杣荷城・米谷古城・不叶館
(登米市東和町米谷杣荷)



鼎城全体図
(南側・県道202号線より撮影)
 米谷地区の中心部にある小山に杣(正確には「禾」に「山」の字)荷神社がありますが、この小山が城跡といわれています。
 小山のふもとには、勤労者センターや藩政時代の史跡である不老仙館などが隣接しています。





本丸跡にある標柱(上)と
国道342号線沿いにある標柱(下)
 米谷杣荷神社の北、並びに東の墓地、さらに東の高地を含めた広大な土地が米谷館跡である。別名不叶館と呼ばれている。中世の館跡であるが仙台封内風土記には「不叶館何人の居城なるか詳かならず」とある。唯伝説ではいくら館を築いても完全な築城が出来なかったので不叶館というと伝えられている。
(本丸跡にある標柱より)

 この城は、米谷城の前身となった城だといわれています。
 米谷氏の始祖(亀掛川千葉氏の一族、米谷に住んで米谷氏と称す)が建治三年(1277)八月にこの鼎城を築き、後に米谷城を新たに築いてそこに移り住んだと伝えられます。
 また「亀掛川系図」によれば、亀掛川氏主流に連なる米谷(亀掛川、千葉とも)胤氏なる人物が、この城から北上川を挟んで対岸にある水越長谷山に城を構えて隠居したとも書かれています。
 いずれにせよ、僅かの間ですが亀掛川氏の主流がこの地に住んでいたということがうかがえます。
 また「加藤文書」には、「古城主、前原四郎頼康(米谷氏の者か?)取立これに居る後葛西左馬尉重直(亀掛川千葉氏の者か?)居住し、又、鋒屋城に移る」とあります。




本丸跡から見た
北上川と米谷の町

 山頂にある杣荷神社の境内一帯、50m四方が本丸跡とみられています。ここを中心に数段の土壇が辺りをめぐります。
 北・西・南の三方が断崖となっており、開けている東側から近隣の大膳館に接続するようになっています。
 これらの様子からすると、かなりの要害であったことがうかがえます。
 また、かつては東側の奥山へと続く窪地の辺りに空壕があり、そちらの方面からも隔絶されていたものと思われますが、今では墓地となっています。
 東西100m、南北150m、高さ30mの中世の山城で、気仙沼市の「加藤文書」には「鼎城 山地 東西五十三間 南北三十八間」とあります。


大膳館
(登米市東和町米谷古舘)



大膳館全体図
(南側より撮影)
調査中



畑地脇にある標柱
 ここは、慶長年間石母田大膳の居城であったのでこの名が付いているが、東は山続き、西はなだらかな地形で二股川(当時は北上川でない)に接し、当時の住民の住みよい場所であったであろう。出土器は前期中期後期の土器石器が出土していて、石器は磨製石斧、石皿、凹石、等様々な物が出土するが、その中「凹石」の中で長さ十五センチ、幅五.六センチの粘板岩に細かい跡のある石器が相当多く出土しているが用途不明である。丸い石版、大きな石斧、骨角器の釣針等も出土している。
(標柱より)


 


米谷城
(登米市東和町米谷古舘)



米谷城全体図
(北西側・二股橋付近より撮影)
調査中



県道202号線沿いにある標柱
 中世長く葛西氏の家臣亀掛川氏の居城であったが、葛西の滅んだ後は伊達の家臣柴田外記の居城となり、その後高泉兼康が黒沼より移り明治維新まで続いた。城は明治三年に取り壊され、廃藩置県で国に没収されたが明治七年に旧邑主高泉氏に払い下げられた。現在本丸跡は畑地になり二の丸跡に高泉氏の居城が建てられている。
(標柱より)



県道脇にある入口
調査中


西郡古館
(登米市東和町錦織芝山)



国道346号線で分断された西郡古館
(西南側より撮影)
 国道346号線を北上し、北上川に架かる錦桜橋を渡って東和町に入ると急カーブがあります。
 そのカーブを曲がって右側にある、教会の建っている丘が、かつて城館があった場所です。




教会脇の道路沿いにある標柱
 鎌倉時代に築造された館といわれている。その後、南北朝時代に陸奥国中郡奉行に二階堂周防守行時、室町時代初期には大内家三代が居城した。
 館は、東西百四〇M、南北百七〇M、標高四五Mの山城であった。明治より堤防の強化と戦後の錦桜橋架替に伴う道路新設によって著しく現状が変更された。
(標柱より)

 亀卦川千葉系の西郡氏も古い時代に住んでいたと考えられています。
 その後、湖水城を築いて一族はそこに移りました。




 教会がある丘のふもとは、かつて北上川まで続いていました。
 堤防や道路の造成のために50mほど丘の先端が削られ、現在は城館跡の後方が残っています。
 現在、教会の背後の畑にある土壇の他は、遺構はほとんど見られません。


平城
(登米市東和町米川力畑)



平城全体図
(西側より撮影)
調査中





県道233号線沿いにある標柱
(上:平城、下:大上塚)
 土地の人はヘージロ(平城)と呼んでいる、平氏の居城であったと伝えられているが、一名稲毛城とも呼ばれていた。本丸の登り口の石垣や尾根を利用した土壇が今も残っているが、葛西の滅びた天正には既に空城となっていたので、平氏は早く亡びたものと思われる。
川向かいには、ヘージロ仏という小さな祠が建っている。
(平城標柱より)

 南北に長い方形の塚で、周囲は浅い堀になっている。塚には応永時代の石碑が立っており、平城の一族のものと思われる供養塚である。
(大上塚標柱より)



調査中


鱒淵館
(登米市東和町米川館ノ下)



鱒淵館全体図
(西側・二股川堤防より撮影)
調査中



標柱・案内板等は確認できませんでした。



調査中


梨ヶ谷
(登米市東和町錦織小童子)



調査中





国道346号線沿いにある標柱
(上:梨ヶ谷、下:西郡用水)
 伊達の家臣芳賀氏の御上屋敷跡である。芳賀氏は百五十石を賜り大番士として最初仙台に住んでいた。
 元和二年(一六一四)(原文ママ。実際は一六一六)大谷野に移封された芳賀氏は、 生の地那須ヶ谷(栃木県)を偲んで、ここを梨ヶ谷と命名し御上屋敷を建て、明治維新まで二百五十三年間芳賀氏代々が居住していた。
(梨ヶ谷標柱より)

 この堀跡は西郡用水と呼ばれ大谷野の田園を潤すために造られたものである。元和四年(一六一八年)西郡村大谷野に移封され梨ヶ谷に居住していた伊達家の大番士芳賀氏によって開かれたものである。
(西郡用水標柱より)



調査中


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