本吉町


府中館
(本吉郡本吉町府中)



府中館図
(南側、国道45・346号線沿いより撮影)
 国道45・346号線沿い、宮城交通バスの停留所「門前」の北側にあります。
 国道を挟んだ両側に丘が続いていますが、これが府中館跡です。



国道沿いにある標柱
(左上は国道で分断された館の一部)
 この台地一面(国道で隔てた向い側台地も含め)府中館跡といわれているところである。奈良時代の多賀城府の前進基地として「府中館」が当地方に三個所あったとされているが、その館の一つであるといい伝えられている。
(標柱より)

 伝承に残る古い時代の館と思われます。
 由緒については詳しく伝えられていませんが、奈良時代、多賀城府の前進基地である「府中館」が3ヶ所にあったとする古記があります。
 標柱にもあるように、この館はそのうちの一つとして重要な位置を占めていたと思われます。



 国道工事による分断・掘削や、西にある大森地区への新道拡張などのため、遺構の大部分が失われています。しかし、国道の東側の丘には数段の壇が、西の丘にある林の中にも壇の跡が見られます。
 この古城は、東の海岸方面に対して構えられた平城もしくは平山城の形式かと思われます。
 高さ5m、東西150m、南北80mと、規模はあまり大きくありません。


平磯古城
(本吉郡本吉町前浜



平磯古城全体図
(北側の漁港より撮影)
 府中館のある交差点を東側に曲がり、海に向かって進むと前浜地区に出ます。
 平磯古館はこの地区にある岬の突端にあります。



道路沿いにある説明板
 ここ、前浜地内前河原漁港を囲む東の岬が「ふんだて」と呼ばれる地である。岬の突端部の平坦地が本丸跡とみられ、岬をくびるように巾5米の空濠がきられて、三方が断崖の堅固な要塞となっている。
 「安永風土記書出」には「館名・館主・年月相知リ申サズ」とあり、「本吉町誌」には、「館の構えからみて鎌倉時代のもので、気仙沼赤岩城の地頭熊谷氏の所領で、その一族の居館と思われる」と書かれている。
(説明板より)

 「仙台封内風土記」には城主不明とあります。
 岩村家の記録には、この館を「鳴壺館」として「大谷の海岸にあり。その先、藤崎越中居住す。その館下に、越中魚釣場の浜、今に之を伝う。此の館の南に『虎穴』と言う岩穴あり」とあります。



 昔から海の狼煙台だと思われていましたが、後に岬の先端から50mほど西の所に幅5m、深さ2mほどの巨大な空堀が見つかりました。
 これにより岬が要塞化されていたと思われ、城館跡であることが分かりました。
 岬全体を城郭と考えると、東西70m、南北200m。「仙台封内風土記」には東西四十間、南北百間、高さ二丈五尺とあります。
 先端部の三角形の台地が本丸と思われています。


遠野館
(本吉郡本吉町馬籠町頭



遠野館全体図
(北側より撮影)
 国道45・346号線と県道233号線の分岐点にある薬師神社から見ると、田んぼの向こう側に、東から南にかけて丘陵地が伸びていますます。
 これが遠野城の跡と伝えられています。 



県道233号線沿いにある説明板
 遠野館の地形は、正面の高所に登ると広い平坦面があり、土塁、空濠が廻らされ、一段低い帯郭から急峻な断崖に続いている。その後方5米の空濠を挟んで、稜線沿いに平坦面がやはり土塁、空濠に囲まれ、典型的な山城の形態を示している。遺構のはっきり残る大規模な城館跡の一つである。
 この遠野館は、鎌倉期地頭の馬籠千葉氏の居館である。3代周防守行胤は、建武3年(1336年)奥州探題葛西高清に襲われ、気仙沼赤岩城熊谷氏と共に戦ったが、千葉一族は殆ど討ち死し敗退した。その結果子孫は葛西家の家臣となり、馬籠氏と改姓した。以後天正18年(1590年)の葛西氏滅亡まで遠野館に居り、近隣に威を張り、この間志津川本吉氏の乱「永正12年(1515年)」「天正2年(1574年)」や歌津合戦「天正14年(1586年)」にも参戦した。なお歌津稲渕館の馬籠四郎兵衛重胤は、遠野館主馬籠大和重吉の二男である。
(説明板より)

 「仙台古城書上」では千葉四郎兵衛の居城、「仙台封内風土記」では千葉宮内左衛門が住むとされていまが、いずれも葛西家臣千葉一族のであると思われます。



 神社の真正面に見える、小山の最高部が本丸跡と云われています。
 本丸は直径70mほどの円形の平場となっており、その周りを二重の深い壕と土塁で囲み、堅固な防塁が施されています。
 本丸から一段下がったところに平場がありますが、その周りにも空壕が掘られており、さらにこの山城の四方には断崖が切り立っています。
 規模は高さ30m、東西200m、南北100mで、西側から伸びてくる街道(現在の国道346号線)に向けて構えられています。
 周囲を断崖・空壕・土塁で守られ、この地方では有数の堅固さを誇っていたと思われます。
 また、街道の横から突き刺す様に伸びてくる台地も、かつてはこの城の物見台として使われたとみられ、これを含めると城の規模はさらに大きくなると考えられます。

 「仙台古城書上」では「 遠野城」として、高さ八丈、東西二十二間、南北十六間とあります。 


信夫館
(本吉郡本吉町信夫



遠野館および説明板
(西側・県道233号線沿いより撮影)
 県道233号線、大柴地区の南に「館」と呼ばれる山の突端部があります。
 ここが信夫館跡であるといわれています。



 左前方東方角に見える小高い松山が信夫館跡である。県道に面した山頂突端に本丸跡とみられる平坦地があり、腰郭が廻らされ、南北に台地が延び、二の丸、三の丸跡とみられ平坦地が連なる。所々に土塁、空壕が見られ比較的小さな山城跡である。平泉藤原氏の時代、この地方の荘園地帯は信夫庄佐藤元治が管理者であり、本吉郡にはその一族を配置し、馬籠に住まわせ出身地(福島市信夫)の名をとり信夫館と称した。文治5年(1189年)には源義経の忠臣佐藤継信忠信の母尼公が住んでいたと伝えられている。後、元治の後裔信継が葛西高清に近待し建武3年(1336年)隣地遠野館を中心として馬籠合戦に参戦し、その功により信夫館を与えられ新佐藤氏の始祖となった。11代信貞は葛西晴信の家臣となり、天正16年(1588年)弟信時と共に気仙沼浜田の乱に参加し戦功があった。なお、この館は、天正18年8月の葛西氏滅亡により取り壊されている。
(説明板より)

 「仙台古城書上」に、「この城、野武士が立篭もりしところ」とあり、「仙台封内風土記」に「佐藤庄司勝信の観台尼の住んだところ」とあります。
 また、平泉藤原時代、源義経の忠臣である佐藤庄司継信・勝信兄弟の母が化粧料としてこの地を賜り、念仏三昧の日々を送ったところといわれています。
 しかし、単なる屋敷跡ではなく、佐藤一族の居城としても重きをなしていたと思われます。
 特に、天正末期の「浜田大乱」の戦記には、本吉郡馬篭信夫館主として佐藤一族の佐藤又次郎の活躍が見られ、信夫館が軍事的拠点として用いられていたことが分かります。



 県道沿いの突端部山頂の林に本丸跡があります。西側の部分が一番高く、その部分は東西60m、南北30m、高さ20m。
 県道からは確認しにくいですが、この館はカギ型をしており南北にも長く伸びています。南北に走る狭い稜線も城郭の一部として使用されたと思われ、左右には複雑に土壇がとりつき、数ヶ所の空堀跡も見られます。
 南面にも台地状になっている部分がありますが、ここが三の丸もしくは物見として使用されていたと考えられます。
 この館は北面の街道(現在の県道)に対して構えられており、この方面は断崖が切り立っています。
 規模そのものはあまり大きくはありませんが、南面および林道付近に「信夫」「館」などと古称される屋敷が残り、昔の繁栄が偲ばれます。
 「仙台古城書上」には「
 忍館城」として東西十三間、南北十六間とあり、「仙台封内風土記」には「信夫館」として高さ九丈五尺、東西十八間、南北二十間とあります。


津谷館(獅子ヶ館)
(本吉郡本吉町津谷館岡



津谷館全体図
(西側より撮影)
 国道45・346号線沿いにある、本吉町役場の裏手にある小山が館跡といわれています。
 現在は住宅地や耕地、神社、墓地などになっています。
 



役場脇にある説明板
 現在地である舘岡公園を含む高台一帯が、津谷館(別名獅子が館)跡である。忠魂碑のあるところが本丸跡福祉センターの立っている所が二の丸跡とみられる。明戸平地を眼下にし、ゆったりとした腰郭を何段にも廻らしている。更に北東部は二層に巨濠が彫られ、東に延び、国道を横切り、保育所の東側まで延びており、峰仙寺一帯を含む広大な区域で城館を形成している。
 峰山寺縁起や米倉系譜によると、南北朝時代、葛西氏の家臣薄衣内匠亮清村が米倉氏を名乗り、嘉暦元年(1326年)津谷村に移館、その後二男米倉玄蕃持村が津谷、平磯、岩尻三村を所領、応安5年(1372年)津谷村獅子が館に居すとある。以来天正18年(1590年)葛西氏滅亡まで二百数十年に亘り、米倉一族の居館として、当地方に権勢を振るった。
(説明板より)

 「仙台古城書上」および「仙台封内風土記」共に、米倉左近将監持長(持村)の居城とあります。また「葛西盛衰記」には、津谷住人として米倉右近行友の居城と書かれています。
 これらのことから、葛西家臣の米倉一族が住んでいたところと考えられます。
 一説によると、気仙沼方面で剛勇をもって知られた最知玄蕃が、後に米倉玄蕃と改めこの地に住んだのが、この辺りの米倉一族の祖であると言われています。
  また「仙台古城書上」には本吉郡津谷城主として米谷左近将監の名を挙げ、登米郡狼河原の豪族・米谷修理之亮の親族であるとしています。
 その他、「葛西真記録」には津谷村の諸士として米田外記という人物の名が見られますが、これは恐らく米倉の誤記であると思われます。



 山頂に、東西に長い楕円形の平場(最長で120mほど)が見られますが、ここが本丸と思われます。また、中央部には壕の跡が認められます。
 二の丸は割合に巾が広く、中には30m以上の所もあります。
 北側には空壕で覆われ、その下は断崖になっています。
 さらに三の丸・四の丸の土壇が続きます。
 西側にも巨大な壕跡が見られ、前記の北側の壕と繋がっています。
 東側は奥山に続いており、この方面は外壕・内壕と二重の壕が切られ、完全に独立している形となっていたと思われます。しかし、外壕は現在埋め立てられています。
 この城は南西側の西郡街道に対して構えられたと思われ、大きさは東西250m、南北200m、高さ40mほどの輪郭式中世山城とみられます。
 また、「仙台古城書上」には「 津谷城」として東西十二間、南北二十間とあり、「仙台封内風土記」には高さ八丈、東西五十間、南北三十五間とあります。
 おそらくは、三陸海岸と北上川筋を結ぶ西郡街道の要所を押さえる、重要な役割を果たしていたと考えられます。 


八幡館
(本吉郡本吉町館下



八幡館全体図
(東側より撮影)
調査中



道路脇にある説明板
(左:八幡館、右:要害館)
 前方北西方角の急峻な山が八幡館である。町道筋から見ると峻しい急斜面の杉山で、白の形態が殆ど見られないが、裏手から見ると極めて堅固な要害である。北東面の山腹を幾重にも帯郭が廻り、登りつめると広い東西に延びる平坦面が開ける。頂上平坦面を三つに区切るように深い空堀が切られ、南西は急な崖をなしている。難攻不落の構えを示す山城である。「安永風土記」には「葛西晴信部家臣山田対馬長時居館」とあり、長時は八幡社を勧請とも書かれており、八幡館の名称もその由来かと思われる。
 来住は、菅原朝光が葛西満信家臣として津谷川に住みその孫長房が長享2年(1488年)に八幡館に移居し山田氏を称した。後嫡流系の菅原氏も大永年間(1525年前後)に八幡館に移居し、両氏は親戚関係で共存したものと思われる。葛西晴信の時代には天正16年(1588年)の気仙沼浜だの乱に参戦し長定道長が勇戦敢闘している。なお、この館は天正18年8月の葛西氏滅亡により取り壊されている。
(説明板より)



調査中


要害館
(本吉郡本吉町岳の下



津谷館全体図
(南側より撮影)
調査中


案内板の画像は八幡館を参照してください。  町道を北西へ進んだ八幡館の右手前の小高い丘が要害館である。町道筋からは判明しにくいが北西面、北西に遺構が見られる。即ち本丸は頂上北寄りの小規模の山頂部がそれである。一段低く南に窪地を挟み再び高台となり、この辺が三の丸と思われる。総じて南西に構えた比較的単純な形の山城である。なお本丸には薬師社、神明社、大神宮が祀られている。「安永風土記」には「葛西晴信公御家臣芳賀薩摩常尚居館」とあり「仙台領古城書立」には「城主芳賀左京亮」と書かれている。芳賀氏は葛西晴胤に近侍し、天文11年(1542年)津谷川より要害館に移居した。隣地の八幡館主とは親戚関係にあり、初代左京常勝、2代薩摩常尚、3代因幡朝常と48年の居館である。常尚は天正7年(1579年)栗原三の迫富沢日向の乱に葛西晴信の家臣で参戦軍功あり、天正16年(1588年)の気仙沼はまだの乱には、朝常と4兄弟が参戦している。なお、この館は天正18年8月の葛西氏滅亡により取り壊されている。
(説明板より)



調査中



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