〜藩の行く末変えた治水職人〜
川村孫兵衛

[1575〜1648(天正三年〜慶安元年)]


石巻城址より望む市街地(旧北上川河口中州付近)
 城県東部に位置する石巻市。
 牡鹿半島の付け根にあるこの街には、連日多数の船舶が国内外から入港し、湾内には数多くの工場や倉庫が建ち並んでいます。
 江戸時代から海運で栄え、

「三十五反の帆を巻き上げて
 行くよ仙台石巻」

(宮城県民謡・遠島甚句より)

 と謡われるほどの賑わいをみせていました。
 
倉時代に奥州総奉行としてこの地に来た葛西氏は、石巻城を居城として近隣の平定に務めました。後に葛西氏が登米郡の寺池城に居城を移してからも、石巻は牡鹿郡を統治する上で政治的・軍事的に重要な位置を占めてきました。
 しかし、戦国時代末期に葛西氏が滅亡した後は石巻も衰退の一途をたどり、江戸時代の初めには小さな一漁村となっていました。
 その石巻を日本有数の港に作り変えたのが、仙台藩士・川村孫兵衛重吉でした。
 
兵衛は天正三年(1575)、長門国阿武(現山口県萩市)に生を受けました。
 若い頃から様々な学問を修めましたが、特に算術に明るく、治山治水の土木技術の他、天文、測量、採鉱などの知識も豊富に持ち合わせていました。
 当初、孫兵衛は中国地方の大大名・毛利輝元に仕えていましたが、慶長五年(1600)に起きた関ヶ原の戦いの際、輝元は敗れた西軍側の総大将に担ぎ上げられたため、毛利家は百二十万石から三十六万石へ大幅に減封されてしまいました。孫兵衛は、これを機に同僚の山崎平太左衛門と共に毛利家を離れ、近江国蒲生郡(現滋賀県蒲生郡)に移り住みました。
 これが、孫兵衛と仙台藩を結びつけるきっかけとなったのです。
 
政時代、仙台藩は奥州以外にも各地に領地を持っていましたが、近江の地にも蒲生・野洲両郡合わせて約一万石を得ていました。
 初代仙台藩主・伊達政宗は、上洛の途中で近江の領地へ立ち寄った際、孫兵衛らの噂を聞きつけ彼らと会いました。そして、会談の中で彼らが優れた技術者であることを認め、仙台藩に招くことにしました。
 こうして孫兵衛は慶長六年(1601)、二十五歳の時に伊達家に仕えることとなったのです。このとき孫兵衛は、五百石で召し抱えるという条件に対し
「代わりに荒地を頂きたい」と申し出ました。そして数年後、その荒地を見事一千石の美田に変え、人々はみな彼のやり方に従うようになったということです。
 
台に来るや否や、孫兵衛は藩内の土木工事や鉱山開発、運河の建設に目覚しい働きを見せました。
 そしてその手腕を認められた孫兵衛は、難問中の難問である北上川中・下流域の改修工事を行なうこととなったのです。
 当時、北上川は川幅が狭いうえに流れも早く、大雨が降る毎に洪水を引き起こしていました。
 また江合川・迫川などの近隣の河川も同じ様な状態にあり、そのため仙台平野北部は湿地帯や湖沼地帯がいたるところに存在する耕作には適さない土地でした。この仙台平野の干拓と新田開発こそが、仙台藩の悲願だったのです。
 
の一大事業とも言うべきこの大工事を任せられた孫兵衛は、工事の設計や現場監督のみならず、工事資金が足らないと聞けば自ら金策に走り回って費用を捻出したり、工事で移転を余儀なくされた人々の年貢の減免を藩にかけあったりもしました。また、現場で働く人足たちの意見や要望を聞くため、彼らと寝食を共にすることも多々ありました。
 人足たちは、親身になって自分たちの身を案じてくれる孫兵衛に応えるべく身を粉にして働き、困難といわれたこの改修工事を見事成し遂げました。
 
れにより北上川・江合川・迫川の水流が安定し、また水捌けも良くなったことで仙台平野の新田開発は急速に進みました。記録によれば、北上川流域だけで、実に四十万石以上の田が開かれたと伝えられています。
 仙台伊達家の表高は、加賀前田家百二万石、薩摩島津家七十三万石に次いで三番目の六十二万石でしたが、その後も藩内の新田開発が続けられたことで実状は百万石をはるかに上回り、一説には二百万石とも二百五十万石ともいわれました。
 
らに孫兵衛は、河川の改修工事と同時に石巻の築港工事も行い、水上交通の整備に務めました。
 当時の仙台藩では、葛西家浪人・米谷喜右衛門の進言を受けて石巻港の開発を計画していたのですが、その指揮を孫兵衛にとらせたのです。
 これにより、河川を使った人や物資の運搬が盛んになり、石巻には領内で収穫された米が集められ、その米は千石船で江戸に送られました。
 仙台米は当時江戸で消費された米の三分の二を占めたといわれ、さらに米相場にも大きく影響し、「本穀(石)米」と呼ばれて消費経済の基準ともなっていました。
 
た、石巻の港には南部・八戸・一関といった東北諸藩の蔵が次々と建てられ、東日本屈指の貿易港となっていきました。
 後年、石巻を訪れた俳人・松尾芭蕉は、その繁栄ぶりに大いに驚き、

「・・・数百の廻船入り江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。思ひかけずかかる所に来たれるかなと・・・」

 と、「奥の細道」に書き残しています。
 元和二年(1616)から始まった一連の工事は、こうして寛永三年(1626)に完成し、後々まで仙台藩に莫大な利益をもたらしました。
 
宗は、石巻を日本の玄関口にするつもりだったという説があります。
 支倉常長ら一行の慶長遣欧使節が、日本とイスパニア(現スペイン)との国交を結び交易を行なうに至った場合には、石巻を長崎のような国際港にしようとしていたというのです。
 しかし、使節はイスパニアとの国交を結ぶにいたらず、常長は失意のまま帰国しました。
 もし諸外国との貿易が行なわれていたならば、石巻はどのような発展を見せたのでしょうか・・・ 

川村孫兵衛銅像(石巻市日和山)

 
兵衛はその後も数多くの事業を成し遂げ、仙台藩の発展に力を尽くしました。
 孫兵衛重吉には男子がおりませんでしたが、長女と結婚して川村家の養子となった孫兵衛元吉(彼もまた「孫兵衛」の名を名乗っていました)もまた優れた民政家で、仙台城下の土木工事や藩内の塩害対策の他、常陸国竜ヶ崎(現茨城県龍ヶ崎市)に郡司として赴いていた頃には、自ら率先して山林の害虫対策にあたり大きな功績がありました。元吉もまた、養父・重吉と同じように庶民の事情に通じた情け深い人物だったのでしょう。
 その後も、川村家からは有能な人物が幾人も輩出され、仙台蕃に貢献していきました。
 
安元年(1648)、孫兵衛は七十四歳でこの世を去りました。
 遺言により、彼が住んでいた門脇村釜(現石巻市門脇中浦)の屋敷跡には普誓寺が建立され、以後川村家の菩提寺として現在まで残っています。
 また、市内には孫兵衛を祭った重吉神社や、測量に使った縄などを納めた縄張稲荷神社があり、彼の功績が永く称えられています。
 
年八月の初め、石巻では川開きが盛大に行われますが、これは海難事故で亡くなった人々の霊を慰めると同時に、石巻を開いた孫兵衛に対する感謝の祭りでもあります。
 そして市内の日和山にある石巻城址には、今なおその繁栄を見守るかのように、孫兵衛の銅像が石巻の市街地を見下ろしています。

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