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戦国時代、親兄弟が敵味方に別れて争ったという話は枚挙にいとまがありません。肉親といえども明日には敵になるかも知れない非情の世の中だったのですから。
そして、ここにもそんな戦国の理の前に消えていった人物がいます。
彼の名は大崎義宣、またの名を伊達小僧丸義宣。
大崎家の始祖・斯波家兼が暦応二年(1339)に室町幕府の探題職として奥州に下って来てから約二百年、大崎地方(現宮城県北西部一帯)に一大勢力を誇った大崎家も、戦国時代に入ると内紛や長年にわたる葛西家との領地争いで衰退の一途を辿っていました。
そして天文三年(1532)、大崎家十一代・義直が家臣・新田頼遠の反乱に兵を挙げたところ、他の家臣たちが呼応して次々に反旗を翻すという事件が起こってしまったのです。自分の手には負いかねると判断した義直は、当時陸奥守護職にあった伊達稙宗に救いを求めました。稙宗は自ら兵を率いて二年がかりでこの乱を平定したのですが、その代償として伊達家と大崎家の養子縁組を要求してきたのです。
そして乱が平定して間もなく、稙宗の次男・小僧丸が大崎家十代・高兼(義直の兄)の娘である梅香姫の婿として入嗣したのでした。
梅香姫は、その名が示すとおり近隣に聞こえた美貌の持ち主だったと伝えられ、若武者ぶりも凛々しい小僧丸と並ぶ姿は、初々しくもお似合いの二人でした。
伊達家は稙宗の代になると、近隣の諸大名との婚姻や養子縁組みを積極的に行なうようになりました。そうすることによって他家との繋がりを深め、あわよくば服属させようとする政策だったのですが、受け入れる側も、勢力を伸ばしつつある伊達家の庇護を得ようとする思惑がありました。
そして今回も、稙宗は大崎家の内紛に乗じて小僧丸を送り込み、伊達家の勢力をさらに伸ばしていくつもりでした。
しかし、大崎家の中にはこの縁組みを快く思わないが面々がいたのです。それが義直をはじめとした一派でした。先の家臣団の反乱も「探題職として長い伝統を誇る大崎家が、伊達家の言いなりのままでいいのか」という憤りから起こったものだったのですが、小僧丸が養子に入った事でますますその思いが強くなっていきました。
それでも、養父・高兼の存命中はまだよかったのですが、その死後、家臣団は小僧丸派と義直派に分かれ、事あるごとに反目しあうようになっていきました。そしていつしか小野御所(現古川市小野)に住まう小僧丸と名生城(現古川市名生)に移り住んだ義直の二人の領主が存在するようになり、そのため領内の混乱を招くことになったのです。
その頃、伊達家に一つの問題が持ち上がっていました。それは隣国・相馬家への領地割譲や稙宗の三男・実元を上杉家へ養子に出すことへの意見の違いから、十四代・稙宗と十五代・晴宗の親子同士で争いが起こったのです。
急激に勢力を拡大する稙宗と伊達家の基盤を固めることが先決と考える晴宗の相克から端を発したこの戦は、伊達家中のみならず稙宗の婚姻政策により縁戚関係になっていた南奥州の諸大名にまで影響が及び、ついには天文十一年から七年間にわたって続いた”天文の大乱”と称されるに大いくさになったのです。
もちろん大崎家も例外ではなく、稙宗側についた小僧丸派と晴宗側についた義直派が相争う形となったのです。
そして、これが後の小僧丸の運命を決めることになったのです。
小僧丸はこの戦で、時に前線に立って軍を率いたと思えば、時に稙宗の使者として領内諸将の勧誘に東奔西征したりと、まさに八面六臂の活躍をみせ、序盤の稙宗側優勢の原動力となりました。しかし晴宗側も次第に反撃を開始。徐々に稙宗側が切り崩されて行ったのです。
小僧丸が味方した稙宗は、かつては政略結婚や武力制圧で版図の拡大に務める傍ら、かの有名な分国法「塵芥集」で領国内の整備にも力を入れる名将でありました。しかし、いかな名将といえどもすでに高齢の身。結局、天文の大乱は時の将軍・足利義輝の停戦命令により、稙宗が丸森城へ隠居させられることで終結しました。これにより、晴宗の威を借る義直が大崎家の実権を握ることになり、敗者となった小僧丸は小野御所から岩手沢城(現玉造郡岩出山町)に移され幽閉されることになったのです。

小僧丸墓(宮城県桃生郡河北町辻堂) |
そして、事件は起きました。
天文十八年(1549)八月三日、領内に台風が荒れ狂い各地に被害をもたらしました。大木が折れ多数の家屋が倒壊するという大災害だったのですが、この時、小僧丸の妻・梅香姫が倒れた家屋の下敷となり落命したのです。従者たちに守られた小僧丸は幸いにも一命を取り留めていたのですが、これまでの経緯から「義直派の者どもが、台風に乗じて我ら夫婦を亡き者にしようとしたのではないか」と考え、ただちに出奔することを決めました。
実際、この出来事が人為的なものであるかどうかは不明なのですが、小僧丸にそう思わせる不穏な動きが、水面下で起こっていたと思われます。
小僧丸が再び姿を現すのはそれから十ヵ月後のことです。この間どこに潜んでいたかは不明ですが、大崎家の勢力圏を脱し、救いを求めて葛西家領内を目指していた小僧丸と数名の側近は桃生郡辻堂(現桃生郡河北町辻堂)に辿り着きました。
目の前に横たわるこの大河を渡りきれば安全な葛西領に入る、そう思って安堵した一行の前に、突如白刃を振りかざした一団が襲って来ました。これこそ、小僧丸出奔の報を受けた義直が差し向けた刺客たちだったのです。不意を突かれた小僧丸たちは抵抗する間もなく一人残らず斃されました。(一説には、捕縛された後に切腹したとも、病死したとも伝えられます。)
天文十九年(1550)五月二十日、こうして小僧丸こと大崎義宣は、葦生い茂る北上川のほとりでその短い生涯を閉じました。享年二十五歳といわれています。
小僧丸の墓は現在、石巻市稲井にある亀向院龍泉寺に祭られています。そして、彼が命を落とした北上川のほとりにも、今もひっそりと墓碑が建っています。
その後、義直が大崎家の跡を継ぐも、大崎家の没落を止めることはできませんでした。そして天正十八年(1590)、十二代・義隆の代に、豊臣秀吉の小田原参陣に応じなかった咎で領地没収となり、ここに奥州の名家・大崎家は滅亡したのです。
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