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江戸時代、伊達家は初代・政宗から十三代・慶邦に至るまでの約三百年間、日本で三番目の石高を誇る大大名として仙台藩主の座にありました。
しかし、その間は決して平穏な時代ばかりではなく、「伊達騒動」で有名な後継者争いや重臣間の権力争いなど、いくつもの危機が訪れました。
その中でも、宝暦年間は大飢饉が相次ぐ受難の時代でした。
特に宝暦五年(1755)に起った飢饉は藩内でも多数の餓死者を出し、天保・天明の飢饉と合わせて仙台藩の三大飢饉に数えられるほどの大きな被害をもたらしました。
この飢饉により、農民たちの間では堕胎・間引などの嬰児殺しが頻繁に行われるようになり、「四十二歳の時に出来た子は親に仇をなして祟る」という俗説や、双子以上の子を産んだ母親を「畜生腹」と呼んで罵る風潮さえ出てきました。
困窮を極める農民たちが、自らの生活を守るためにやむを得ずにとった手段とはいえ、なんとも痛ましい話です・・・
こうした子供の養育放棄や農村部からの労働人口の流出は、それから間もなく藩の生産力の衰退という形になって表れました。
経済基盤を米に頼っていた仙台藩にとって、作付面積の減少は藩の存亡にもかかわる重大な問題でした。
七代藩主・重村は、その混乱の真っ只中にあった宝暦十(1760)年2月21日、江戸にある仙台藩芝口浜屋敷(現浜離宮北隣)において婚礼を挙げました。
その相手とは、広幡大納言忠郷の娘であり、関白・近衛内前(うちさき)の養女となった年子(のぶこ)でした。
このとき、重村十九歳、年子十六歳でした。
幼少の頃から聡明で知られた年子は、成長するに従い数々の教養を身に付け、和歌や書にも巧みな上に容姿端麗、京でも評判の才媛でした。
京都からはるばる仙台の伊達家に輿入れとなったその日、桃園天皇(一一八代)がひそかに嫁入行列をご覧になられるという内旨がありましたが、その行装は豪華を極めたものだったと伝えられます。
藩主となった重村は、さっそく飢饉で弱りきっていた領民を保護する政策を打ち出しました。
宝暦十二(1762)年より、百歳以上の老人に養老棒と称して二石の終身米を与え、また明和二(1765)年からは、双子を生んだ母親に米五石、三つ子の場合は七石五斗を与えることと決めました。
こういった動きに対して、藩内でも学者や僧侶層を中心として、幼児や妊産婦の保護についての関心が高まっていき、寛政四年(1792)年には、すでに隠居していた重村と八代藩主・斉村(なりむら)が、領民保護のための財源として合わせて二百両を下賜しました。
そして、寛政六(1794)年には、「御先代様(斉村)思召を以って赤子養育御世話の儀」(肝入文書)として藩でも本格的に保護策に取り組み始め、さらに文化四(1807)年には、郡奉行・二瓶運治、郡方横目・新妻元之らにより正式に制度化され、それぞれの配下に赤子養育方係横目を、また村々には大肝入の配下に赤子方村制道役という役職が設置されました。
この役職は「赤子養育仕法」に則って領内の村々を巡回し、
・領民に対する堕胎・間引を防ぐための教育
・幼児の養育状態の監査
・懐妊婦の保護および出生調査の実施
・養育費の支給
などを行いました。

赤子養育所が置かれた仙台城二の丸 |
このような動きは、当時全国各地で見られましたが、仙台藩でも仙台城二の丸に赤子養育所を設置するなどして、藩全体で幼児の保護と養育に務めました。
この江戸時代の母子福祉法は、明治四年(1871)の廃藩置県まで続き、多くの命を救っていきました。
この仙台藩の政策の陰に、ある一人の女性の姿がありました。
その人こそ藩主重村の正室・年子でした。
かねてよりこの政策に賛同していた年子は、寛政五(1793)年、化粧道具などの身の周りの品々を売り払うなどして二万両もの私財を工面し、養育資金として提供しました。
そしてこの資金は、翌年の赤子養育仕法の制定に大いに役立てられました。
年子が幼児の養育に力を入れた理由として、彼女自身あまり子宝に恵まれなかったことが関係していると思われます。
年子は、嫁いでから6年目の明和二(1765)年12月25日に長女、明和七(1770)年9月7日に次女、そして安政四(1775)年の12月19日には三女と、3人の女児を出産しました。
しかし、長女と三女は生まれたその日のうちに亡くなり、成人したのは次女の満姫だけでした。(ちなみにその満姫は14歳で井伊玄蕃頭直富と結婚しましたが、その4年後に直富が他界したためにわずか18歳で後家となり、その後75歳で没するまで仏門で過ごしました。)
そして重村と年子の間には男子が産まれなかったため、側室・郷子の生んだ斉宗が八代藩主となりました。
しかし、世継ぎには恵まれなかった年子でしたが、藩主夫人として夫・重村や家臣たちからの信望はとても厚いものがありました。
重村は若い頃から学問や芸術に秀でていた人物でしたが、その反面、非常な癇癪持ちでも知られ、「歴代藩主中もっともだらしない藩主であった」(『宮城県史・近世史』より)とも言われています。
あたら才能があっただけに、相次ぐ飢饉で思うような政治ができなかったことがよけい憤りを募らせ、このような振る舞いに現れたのでしょうか。
そんな重村も妻・年子には一目置いていたようで、家臣が重村の勘気をこうむったときでも、重村はそばに年子がいると怒りを抑えて、「年子がいて、そちは幸せだったな」と、苦笑いを浮かべて過ちを許すこともたびたびあったそうです。
仙台藩が復興に向けて動いていた寛政八(1796)年、年子に相次いで不幸が降りかかってきました。
まず4月15日、義理の息子である八代藩主・斉村の妻・興姫が、22歳という若さでこの世を去りました。3月2日に長男・政千代(後の九代藩主・周宗(ちかむね))を出産してからわずか一ヶ月あまり、斉村と興姫の夫婦生活はわずか3年という短いものでした。
さらにその7日後の4月21日、病のため寛政二年(1793)に藩主の座を退き隠居していた夫・重村が他界したのです。重村55歳、年子52歳の時でした。
夫の死により、年子は仏門に入り名を観心院と改めました。
本来ならば、観心院は夫の霊を慰めつつ静かに余生を過ごすはずでした。
しかし、天がそれを許してはくれませんでした。
8月12日、今度は藩主・斉村が、亡き妻・興姫と同じく22歳で他界したのです。
観心院は、半年の間に夫と義理の息子夫婦を亡くすという悲しみに包まれたのです。
それでも彼女には悲嘆に暮れている時間はありませんでした。
なんとこのとき、仙台藩は藩主不在、さらには藩主を代行すべき人物もいなくなるという緊急事態に陥っていたのです。
9月29日、幕府の命により斉村と興姫の忘れ形見である政千代が九代藩主の座に着くことになり、かろうじて改易こそ免れはしたものの、藩主はまだ生後七ヶ月の幼児であり、とても藩政を任せるわけにはいきませんでした。
そこでこの幼君の代わりに仙台藩を牽引していく人物として、義理の祖母にあたる観心院に白羽の矢が立ちました
一時は隠棲を決めていた観心院でしたが、藩と領民のために再び公の場に姿を現すこととなったのです。
身内の相次ぐ不幸を悲しむ暇もなく、観心院は藩内に沸き起こる数々の問題と対峙していきました。
まず夫・重村の異父弟である下野国佐野藩主・堀田若狭守政敦と相談し、藩内で多発している打ちこわしや一揆などの暴動を静めるべく、伊達安房村氏・伊達安芸村常・伊達式部村幸らに治安の回復を命じました。
また、片倉小十郎・後藤又兵衛ら重臣たちに対し「当分の間は、仙台藩の政治を堀田若狭守に寄託すること」、「宇和島伊達家をはじめとした、伊達家の親族にも協力を仰ぐこと」を言い渡すとともに、「政治に対して意見のあるものは、いつでも遠慮せずに申し出るように」とも告げました。
さらに他の奉行たちに対しても「藩祖・政宗公の遺風を失うことなく、武士の気概の向上をはかり、領内の鎮静化に尽力すること」を伝えました。
そのときの様子を、仙台藩の「東藩史稿」には、
「汝等努力藩祖ノ遺風ヲ失ハズ、士気ヲ振起シ、国内ヲ静粛ニスヘキ旨夫人懇命」
と書き記されています。
領内の治安維持のために毅然とした態度を見せる一方で、領民思いで慈悲深い一面も見せています。
当時、仙台藩の江戸藩邸の人足小屋は土間造りで、毎日の食物もとても粗末なものでした。観心院はそれらを改めさせ、また火見櫓にいる者には、それまで許されていなかった頭巾の使用を認めました。
囚人たちに対しても、牢舎の窓に紙を張らせて寒風を防いだり、一年に二回牢から出して髪の手入れや入浴をさせ、さらには監内の散歩も許しました。囚人たちはこれらの改善を「観心院様の思召し」と呼び、非常に感激したとのことです。
また寛政九(1797)年六月には、安南に漂流していた領内の八人の漁夫たちを城中に招き、苦労をねぎらったといいます。
そしてまた彼女は、藩の切り盛りをするほどの才知の持ち主だっただけに、なかなか機知に富んだ女性でもありました。
それは、芝の増上寺で行われた将軍家の法要において、幼少であった藩主・周宗の代理として参列した時のことでした。
そもそも山門に入る行列の順序は、徳川御三卿(田安、一橋、清水)・御三家(尾張、紀伊、水戸)の後に、加賀・薩摩・仙台と諸藩が続くのが慣わしでした。
が、この時仙台藩の行列は、誤って御三卿の後に輿をつけてしまったのです。
当然、境内警護の役人はこれを見咎め、行列を止めにかかりました。
しかし観心院は臆せず、近習の侍に「関白近衛内前の娘年子」と名乗らせ、堂々と寺の中に輿を進めました。
宮中の席次で言えば、関白は仙台藩はもとより将軍家よりも上席にあたるために役人は阻止できず、この行列を見送るしかありませんでした。
この出来事はあっという間に広まり、人々は仙台の名産品になぞらえて「味噌屋の御後家様、男勝りの人」と言い合って、江戸市中で評判になったということです。
当時の社会において、女性が政治に携わるということは例外的であり、観心院も仙台藩で直接藩政に参画した唯一の藩主夫人でありました。
それと同時に、時には果断に、時には情けによってその混乱期を乗り切っていった観心院は、まぎれもなく仙台藩における優れた為政者の一人でありました。
また、藩主夫人としては世継ぎには恵まれなかった観心院ですが、その代わり領民たちへは多大なる功績を残しました。
そんな政治的才能にその手腕を発揮した観心院の傍らには、常に一人の女性の姿がありました。
それが八代藩主・斉村の生母であった正操院郷子でした。
やもすれば確執を生みかねない正室と側室という立場にありながらも、観心院と正操院は互いに深い信頼関係で結ばれていました。
幼い頃より学問好きで、経書・国学に通じていた正操院の知識や政治的能力は、他の伊達家の家臣たちも一目置くほどであり、補佐役として観心院のよき相談相手でもありました。
さらに、下級役人や下働きの者にも心配りを忘れない優しさと慎み深さを持ち合わせ、昼には藩政に携わり、夜は書物を読むのを楽しみとしていた正操院は、人々に「賢夫人」と呼ばれ慕われていました。
文化二(1805)年9月16日、観心院は仙台藩の復興を見届けるかのように、61年の生涯を閉じました。
法名、観心院慧性衍明大姉。
そして正操院もまた、観心院に遅れること17年、文政五年(1822)8月12日に68歳でこの世を去りました。

大年寺山より望む市街地と広瀬川 |
仙台城の東側には、仙台のシンボルのひとつである広瀬川が流れています。
飢饉の時には、多くの人々が食物を求め、藩内はもちろん隣藩からも藩境を越えてこの広瀬川の近辺に集まって来ました。
仙台藩では広瀬橋の付近に救助小屋を設け、粥を与えるなどの救助活動を行いましたが、それでも数万人もの人々が命を落としました。
このときの被災者を供養するため、観心院は広瀬橋のたもとに桃源院という寺を建立し、灯ろう流しを始めたと伝えられています。
以来、盂蘭盆に”川施餓鬼”を修行する慣例に従い、毎年灯ろう流しが続けられてきました。
戦後、一時中断したものの、現在は毎年8月20日に実施され、仙台市民の間で晩夏の風物詩として親しまれています。
観心院が眠る大年寺、そのふもとを流れる広瀬川の水面が数多の光で満ち溢れる頃、仙台には秋の気配が漂い始め、短い夏の終わりを告げます。
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