旧・河北町


大森城
(石巻市大森字清水)



大森城全体図
(西側より撮影)
調査中



県道33号線沿いにある標柱と説明板
 中世山内首藤氏の拠点となった所。
(標柱より)

 大森城は、大森山一帯が城となる壮大なもので、本丸・二の丸・空濠・土壇等、今も当時の遺構がみられる中世の山城である。城制は梯郭式で鶴翼の陣形をみせ、高さ五五m、東西六〇〇m、南北二五〇m以上にも及ぶ。
 この城は、中世の桃生城主、山内首藤氏の本拠地である。同氏は平泉征伐の軍功で桃生二十四郷を拝領し、この地方に栄えた。「永正合戦記」によれば、永井城(桃生町)からこの地に移り、ここを造営して住んだ、とある。時に南北朝期から室町中期(一三五〇〜一五〇〇)頃と推定される。
 永正年間(一五一五年頃)当主首藤貞道、知貞親子が、この城に拠って石巻城の葛西氏(十三世宗清)と戦った。この合戦に際し、葛西が総力を挙げて攻撃を加えても、どうしても陥落せず、やむなく兵糧攻め、長囲の計をめぐらせたので、ついに落城したと言う。同氏が滅亡することで、桃生郡は正式に葛西領となり、その後、大森城には葛西家臣男沢氏が居住したと伝えられている。
 三輪田の谷津は、合戦のとき矢の落ちた「矢落ち」が訛った地名と言い伝えられ、谷津から大森へ越える道は「矢落坂」と呼ばれている。合戦にちなんだ地名である。
(説明板より)



本丸跡
調査中


七尾城(七王館)
(石巻市中野字七尾)



七尾城全体図
(南側・県道30号線より撮影)
調査中





道路沿いにある標柱(上)と
説明板(下)
 文治五年(一一八九)源頼朝による奥州合戦に従軍して大功をたて奥州総奉行に任じられた葛西清重が、北上川防衛のために、ここに城を築いたと伝えられる。
 後、桃生郡主であった山内首藤氏の居城となるが、その時期については明らかではない。主城のほかに、西北に各三つずつ出城があり、あわせて七つの城なので七尾城と称したと言う。
 永正年間(一五一〇年頃)城主であった首藤貞道が、この城に篭って石巻城の葛西宗清と戦った。当時の七尾城は三方を水に囲まれた難攻不落の城で、葛西氏が総力を挙げて攻撃しても陥落せず、最後は兵糧攻めによってついに落城したと言う。
 その後、葛西氏の一族が居住したが、天正十八年(一五九〇)葛西氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、以来この城は廃城となった。
 本丸・二の丸・三の丸・空濠・門跡等、当時の遺構が現存している。

(説明板より)

 葛西首藤永正合戦の地である。
(標柱より)



県道197号線沿いにある標柱
と城跡(後方)
調査中


中島城(鶴ヶ館)
(石巻市中島)





中島城全体図
(上:北側より撮影
下:南側より撮影)
調査中



神社下にある標柱
 鶴ヶ館、首藤館ともいわれ、首藤刑部俊道の子孫が代々住み、永正年間(一五一五年頃)貞道の代に、石巻城の葛西氏との合戦(永正合戦)に敗れ、落城した。
(標柱より)



本丸跡にある稲荷神社
調査中


相野谷館
(石巻市相野谷字日向)



相野谷館全体図
(南側より撮影)
調査中



道路沿いにある標柱
 葛西重俊の居館と伝わる中世の山城跡である。
(標柱より)



調査中


山崎館
(石巻市相野谷字山崎)



山崎館全体図
(南側より撮影)
調査中



道路沿いにある標柱
 本丸部の杉の巨木は俊信の手植えと伝えられている。
(標柱より)



調査中


北境館
(石巻市北境)



北境館全体図
(南側より撮影)
調査中



県道33号線沿いにある標柱
 中世の城館跡。山内首藤方の南端拠点。
(標柱より)



調査中


赤間館
(石巻市飯野字絵図沢)



赤間館全体図
(南側より撮影)
調査中



県道30号線沿いにある標柱
 飯野越峠道の東南面に位置する。標高八〇メートル程の山頂に中心部があり、平場、腰郭、門、通路、土塁、空堀、枡形などの遺構が見事に残っている。館が開く東南面は割合に緩いが、西北部は深い谷で外郭線は自然の地形を利用している。
(標柱より)



調査中


飯野館(飯野館山城)
(石巻市飯野字新田)



飯野館全体図
(西南側より撮影)
調査中



県道30号線沿いにある標柱
 葛西家臣の飯野但馬の城址
(標柱より)



調査中


桃生城
(石巻市飯野字中山・桃生町字太田字沢入畑桃生町太田字薬田)



桃生全体図
(南側より撮影)
調査中



桃生城址にある案内板




県道30号線沿いにある
案内板(上)と標柱(下)
 桃生城は、古代陸奥国に置かれた城柵の一つである。「続日本紀」には天平宝字2年(758)に造営を開始し、宝亀5年(774)に海道の蝦夷による攻撃を受けたことが記されている。遺跡は、宮城県桃生郡河北町飯野字中山、字唯畑、字高屋敷、同郡桃生町太田字沢入畑に所在し、昭和49・50年、平成6〜13年に宮城県多賀城跡調査研究所と桃生郡河北地区教育委員会、桃生町教育委員会が発掘調査を行った。 遺跡の範囲は、東西約800m、南北約650m、面積約52haに及び、外周を築地塀、土塁、材木塀、溝などによって区画されている。さらに北半部は築地塀と溝によって東西に分けられている。桃生城の中心としての役割を担った政庁は、東側のほぼ中央に位置する。遺跡の東側は政庁以外にも建物が建ち並び、実務を担った官衛地区が造られたのに対し、西側は建物や住居が築かれない空間であった。城内の主要な建物、北辺、城内築地塀、櫓は同時期とみられる火災で焼失し、その後復興されていない。この火災は宝亀5年に生じた海道の蝦夷による桃生城攻撃が原因とみられ、桃生城は約15年ほどでその役割を終えたと考えられる。
(城址案内板より)


 桃生城は、天平宝字2年(758)に造営を開始し、同4年には完成し、その後、宝亀5年(774)に海道の蝦夷による攻撃を受けた古代陸奥国の城柵である。遺跡は、宮城県石巻市飯野字中山、字唯畑、字高屋敷、同市桃生町太田字沢入畑に所在し、昭和49・50年、平成6〜13年に宮城県多賀城跡調査研究所と桃生郡河北地区教育委員会(当時)、桃生町教育委員会(当時)が発掘調査を行った。
 遺跡の範囲は、東西約800m、南北約650m、面積約52haに及び、外周を築地塀、土塁、材木塀、溝などによって区画している。さらに北半部は築地塀と溝によって東西に分けられている。桃生城の中心は、東側のほぼ中央に位置する政庁である。東側は政庁以外にも建物が建ち並び、実務を担った官衛地区が造られたのに対し、西側は建物や住居が設けられない空間であった。城内の主要な建物、北辺、城内築地塀、櫓は同時期とみられる火災で消失し、その後復興されていない。この火災は「続日本紀」宝亀5年7月壬戌(25日)条にみえる海道の蝦夷による桃生城攻撃が原因と考えられる。桃生城は8世紀後半の約15年間でその短い役割を終えている。
(県道30号線沿い案内板より)






政庁跡(上)と土塁(下)
[政庁]
 築地塀で方形に区画した南北約72メートル、東西約66メートルの範囲にあたる。内部の中央北寄りに正殿、その北に後殿、正殿の南には東西対称の位置に東脇殿と西脇殿が、規則性をもち整然と配置され、正殿の南は広場として利用されている。本遺跡内では唯一の、建物と築地塀に瓦が葺かれた空間と見られる。

(城址案内板より)

[政庁域]
 築地塀で方形に区画した南北約72メートル、東西約66メートルの範囲にあたる。内部の中央北寄りに正殿、その北に後殿、正殿の南で東西対称に東脇殿と西脇殿が、建物方向に規則性をもち整然と配置されている。建物は瓦葺きとみ
られる。正殿の南には広場が設けられていた。

(県道30号線沿い案内板より)


持領館
(石巻市三輪田字持領)



持領館館全体図
(西側より撮影)
調査中



民家脇にある標柱
 高さ四〇m東西八〇m、南北二〇〇mの小型の山城。館主は確かでないが、「葛西真記録」によると、当地区に住んだ武士として三輪田弥右衛門、阿部四郎左衛門なる二人の名が登場する。
(標柱より)





釣ノ尾館
(石巻市福地字町)



釣ノ尾館館全体図
(西側より撮影)
調査中



八幡神社脇にある標柱
 室町末期、山内(福地)左馬之介居城。江戸初期、仙台藩決戦の”詰めの城”と想定されたと伝わる所。
(標柱より)



県道30号線沿いにある八幡神社


小枝館
(石巻市東福田字小枝)



小枝館館全体図
(北側より撮影)
調査中







萱館
(石巻市大森字清水)



萱館館全体図
(北側より撮影)
調査中







福地館山城
(石巻市福地)



福地館山城全体図
(西側より撮影)
調査中



川沿いにある標柱
 福地首藤氏の居城と伝わる中世の山城跡である。
(標柱より)



調査中


針岡館
(石巻市針岡字鳥屋森)



針岡館全体図
(西側・富士沼対岸より撮影)
調査中








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