| 石巻市 |
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| 石巻城(日和山城) (石巻市日和ケ丘二丁目) |
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| 所 在 |
石巻城全体図 (南側・日和大橋付近より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
![]() ![]() 鹿島御児神社脇にある案内板と石碑 |
文治五年(一一八九)の奥州合戦の恩賞として源頼朝の家人葛西清重は、牡鹿郡ほか数か所の所領を給付されました。以後、天正一八年(一五九〇)に豊臣秀吉によって滅されるまで約四〇〇年の間、牡鹿郡は葛西氏の重要な所領であり、なかでも石巻の日和山は、その居城があったところという伝承が残っています。 しかし葛西氏の奥州における所領支配の実態は明らかでなく、その居城についてもはっきりしたことはわかりませんでしたが昭和五八年(一九八三)の発掘調査によって、ここ日和山に大規模な中世城館があったことが確認されました。 この城跡が、葛西氏にかかわる有力な城館であることは間違いなく、石巻市のシンボル的な城跡、(「石巻城跡」)として長く保存することとなりました。 (案内板より) |
| 規 模 |
![]() 本丸跡にある鹿島御児神社 ![]() 本丸から望む旧北上川河口 |
調査中 |
| 大和田館 (石巻市井内字坂上山) |
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| 所 在 |
大和田館全体図 (東側・県道234号より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
道路脇にある標柱 |
この館跡は、頂上に平場を持ち、その東側に一段下がって腰曲輪があるほか、北東から東側にかけて5段から6段の段築が認められています。時期や館主については不明ですが、近世の「根岸村端 渡波風土記御用書上」と「牡鹿郡萬御改上」の根岸村の部分に「古館」の記載が見られます。 (標柱より) |
| 規 模 |
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調査中 |
| 平形館 (石巻市沢田字平形) |
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| 所 在 |
平形館全体図 (北西側農道より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
道路脇にある標柱 |
標高約一八〇メートルの山頂に築かれた中世の城館。規模は小さいが平場、空掘、土塁が形よく配置された山城の典型的な例である。殆んど昔のまま保存されている数すくない城館の一つである。館主は不明であるが、安倍貞任の居城であったと言い伝えられている。 (標柱より) |
| 規 模 |
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調査中 |
| 三日防館 (石巻市高木字小沢) |
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| 所 在 |
三日防館全体図 (西側農道より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
道路脇にある標柱 |
標柱の文字の大部分が判別できませんでした。 |
| 規 模 |
城館跡北側にある八幡神社 |
調査中 |
| 鶴子坂館 (石巻市沼津字八幡山) |
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| 所 在 |
鶴子坂館全体図 (南西側農道より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
神社脇に倒れていた標柱 |
源義家が奥羽征討の際の居館と伝えられているが、詳細は不明である。 (標柱より) |
| 規 模 |
城館跡にある八幡神社 |
調査中 |
| 出雲館 (石巻市沼津字越田) |
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| 所 在 |
出雲館全体図 (南東側にある沼津貝塚より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
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標柱・案内板等は確認できませんでした。 |
| 規 模 |
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調査中 |
| 高木古館 (石巻市高木字石崎) |
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| 所 在 |
高木古城館全体図 (南側道路より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
真野川沿いにある標柱 |
中央に大きな平場があり、それを取り巻くように数段の腰曲輪状の段築があります。 平場に続く尾根には、土塁を伴う堀切が四本あるほか、周囲の斜面にも竪堀が見られるなど、防御のため極めて計画的に築かれた中世の館跡と思われます。 (標柱より) |
| 規 模 |
調査中 | |
| 寺館 (石巻市真野字萱原) |
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| 所 在 |
寺館全体図 (南西側道路より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
墓地脇にある標柱 |
長谷寺の裏山に立地するこの館跡は、平場や腰曲状の段築、空掘が見られます。館主は、はっきりしていませんが、「真野村風土記御用書出」(安永2年)などの古文書では長谷寺との境界にあるためにこの名がついた、とされています。 (標柱より) |
| 規 模 |
長谷寺板碑群 |
本板碑群は、鎌倉から安土桃山時代にわたるものでその年代幅の広い事が特徴となっている。 一部を除いては内原地区から埋没状態で発見されており、付近に残る館跡との関連が注目される。 (標柱より) |
| 鷲ノ巣館 (石巻市大瓜字鷲ノ巣) |
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| 所 在 |
![]() 鷲ノ巣館全体図 (南側農道より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
![]() 稲井テニスコート脇にある案内板 |
石巻地方には多くの中世の館跡が存在する。この鷲ノ巣館は、そのなかでも規模が大きく、つくりがていねいな館である。 籠峰山に連なる標高七十メートルほどの丘陵に立地し、東西に並ぶ三つの平場を中心に空堀、土塁、腰廓等から構成される。 一番西の平場が本丸と推定され、一二五m×七〇mである。二の丸は中央の平場と考えられ、三〇m×二〇mで、本丸との間に空堀があり土橋も確認されている。東端の土塁で囲まれた平場が三の丸と推定され、三の丸から南に真っ直ぐのびる通路と思われる土塁がある。 本丸が墓地として利用されていることと南斜面が学校用地として造成されている以外は、保存状態がよく、貴重な中世城館跡である。 (案内板より) |
| 規 模 |
![]() ![]() 平場(上・下とも) |
調査中 |
| 水沼古館 (石巻市水沼字小多田) |
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| 所 在 |
水沼古城全体図 (東側・安楽寺跡より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
[安楽寺跡板碑群と水沼地区の中世遺跡] 元禄十一(一六九八)年の、水沼に関する最古の記録「牡鹿郡萬御改書上」の中に、水沼村、東西二十町南北一里二十六間 高七十一貫五百二十七文 人数八百七十二人 と記されている。往古、水沼中央部の台地上に東光山安楽寺と号する寺院が存在した。以前この寺跡から「一字一石経」が多量に出土したといわれ、旧観音堂の土檀とともに、寺の存在を裏付けるものであり、現在板碑の立つ背後台地一帯がその場所と推定される。 ここに整理された板碑は、安楽寺に造立されていたと思われ、弘安六(一二八三)年〜永享三(一四三一)年までのものが確認される。特にこの内、正和元(一三一二)年の碑が通称「弁慶石」と呼ばれる。また寺中畑、亀山畑地区には、板碑の形式を備えるが無年号のものが三基ある。室町時代と推定されるが、一地区に無年号板碑が三基もある事は、本地区特徴の一つである。 さらに東方の寺中畑地区からは、一二世紀初頭の窯跡が発見され、日本窯業史上、重要な遺跡として位置づけられている。 また、西方丘陵上には館主、水沼下野と伝えられる「館跡」等も確認される。 (安楽寺跡・案内板より) |
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| 規 模 |
調査中 | |
| 水沼館 (石巻市水沼字館下) |
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| 所 在 |
水沼館全体図 (東側農道より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
標柱・案内板等は確認できませんでした。 | |
| 規 模 |
調査中 | |
| 京ケ森館 (石巻市沼津字竹ノ森) |
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| 所 在 |
調査中 | |
| 歴 史 |
県道234号沿いにある案内板 |
この地域は考古学的に「京が森館跡」と称され江戸時代元禄十一年(一六九八)「沢田・真野・沼津」の三か村の境にあり、館主安倍貞任と申し伝えあり」とある。(牡鹿郡萬御改書上より)館跡とみられる山頂部は約三百平方メートル程山腹を切り出した平場が設けられ、その西側部には土塁状に高まった所が認められている。 遺構や文献から見て、この遺跡は古代から中世にかけての軍事的施設であろうと推定されている。 山頂まで徒歩約五十分、松類・杉・雑木林の林道が続き、すすき・はぎ類が山頂附近に群生している。 沼津・沢田・真野の集落の三角点に位置する山頂は芝生で眺望もひらけ、南西部に万石浦から石巻湾一帯、市街地より矢本・鳴瀬町が展望でき、北東に北上連山の尾根が続き四季おりなす自然は南三陸金華山国定公園として四方の眺望は絶景で市民のハイキングコースとして親しまれている。 山麓に、縄文期出土品をみる史蹟・沼津貝塚・県営ライフル射撃場・市民の森・牧山・石巻オーシャンCCなどがある。 (案内板より) |
| 規 模 |
調査中 | |
| 陣ケ森館 (石巻市真野字小島山) |
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| 所 在 |
![]() 陣ヶ森館全体図 (西側農道より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
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| 規 模 |
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| 大瓜古館 (石巻市大瓜字寺崎) |
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| 所 在 |
大瓜古館全体図 (南東側農道より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
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| 規 模 |
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| 南境館 (石巻市南境字館下) |
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| 所 在 |
南境館全体図 (西側県道33号より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
民家脇の空き地に倒れていた標柱 |
規模は小さいが、よくまとまった単郭式の中世城館。頂部の(破損により読み取れず)腰郭、館の南端を画する土塁と空堀がよく残っている。館主は葛西家家臣大瓜玄蕃と伝(破損により読み取れず)られるが、確証はない。 (標柱より) |
| 規 模 |
調査中 | |
| 竹ノ下館 (石巻市南境字竹ノ下) |
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| 所 在 |
![]() 竹ノ下館全体図 (西側土手より撮影) |
調査中 |
| 歴 史 |
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| 規 模 |
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