川崎町


薄衣城(米倉館・葛丸館・搦手館)
(一関市川崎町薄衣元町)



県道189号線沿いにある案内板



薄衣城舘坂南口
 この場所は、中世の城<薄衣城>跡です。薄衣城の他に、米倉館、葛丸館、あるいは搦手館の呼び名があり、当時の城の形状が良好な形で残されている貴重な史跡です。
 私たち薄衣城址保存会は、平成七年度において公園化に向けた基本構想を策定し、みんなに親しまれる史跡づくりを勧めています。茶色の登坂路「搦手坂」を登れば、約5分で頂部に着きます。北上川や北上大橋、薄衣の町場が展望できますので、時間がありましたら、一度登ってみてください。
(県道沿いの案内板より)

 薄衣の町の南、千厩川が北上川に合流する付近を北の境として南新山が大きく南西に展開しており、ここに多くの遺構が見られます。
 四方を急な斜面に囲まれ、かつては堅城であったことをうかがわせます。



本丸跡にある説明板


本丸跡にある標柱
 「薄衣系図」によれば始祖千葉四郎胤堅が、建長四年(一二五二)八月、奥州栗原郡に三千余町を賜り、奥州の押として下向、磐井郡の薄衣庄に居住、翌建長五年二月、 一城を構えたと伝えられた。後に千葉氏は葛西氏の幕下となり「薄衣氏」をなのり天正十八年、葛西氏の滅亡まで当地方を治めた、(「岩手県史」)による
(本丸跡説明板より)


 城主として、「仙台古城書上」には千葉中務、「仙台封内風土記」には千葉甲斐守胤次とありますが、両者は同一人物もしくは親族と思われます。
 「葛西真記録」の中にある、葛西滅亡戦における栗原郡森原村の陣の記録に、黄印黄旗の総大将として千葉(薄衣)甲斐守胤勝の名があります。この所伝から、葛西家親族である薄衣氏が、大原氏・岩渕氏と勢力を三分してこの地に君臨していた巨大な豪族であることが分かります。
 また、天正十一年(1583)に奥玉の千葉大膳太夫が、天正十三年には松川の鳥畑伊予守が、それぞれ薄衣因幡守
(甲斐守の父?)の追放に会い、相次いで大原氏の下へ亡命しています。このことから、薄衣氏は勇猛激情型の戦国武士だったと思われます。
 「薄衣系図」によると、天正十八(1590)年八月、当主千葉常雄(甲斐守)が宮城県桃生郡深谷において、同志と共に伊達政宗の謀殺にあったとされています。(享年三十五歳)



手前:本丸跡
奥:二の丸跡



二の丸跡から見た
北側の薄衣の町と北上川

 この城跡は「仙台古城書上」には「薄衣城」として、東西二十五間、南北十七間、二の丸として東西二十九間、南北十七間、とある。「風土記」には米倉館として東西五十二間、南北三十八間と記録される。(仙台領古城・館より)
(本丸跡説明板より)


 頂上には東西約120m、南北50mの平場があり、ここが本丸跡とされています。中央部には井戸跡があります。
 本丸西側に東西約50mの二の丸跡があり、その先は県道側に向かって断崖となっています。
 東側には東西約60m、南北100mの三の丸があります。
 本丸・三の丸は、現在は畑となっています。
 全体としては、高さ約100m、東西約300m、南北約250mの大きな梯郭式山城で、北上川・千厩街道・西磐井の山々を見渡せる天然の要害となっています。

 立地状況をみると、南および西南(北上川下流)に対しての防御を考えたものと思われます。北面からは物見があった杉林の台地が見られます。
 北上川を挟んだ西側の一関市富沢方面からも見えますが、南側の安養寺(薄衣千葉氏の菩提寺で「千葉家累世之碑」「薄衣城主十四代慰霊顕彰碑」がある)方面からは、本丸・三の丸の土壇がはっきりと確認できます。大手門もこちら側にあったようです。




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