〜南洋に翔んだ「鴉」の子〜
細谷十太郎

[1862〜1933(文久二年〜昭和八年)]

 台藩士・細谷十太夫。
 幕末の頃、仙台藩のゲリラ部隊である衝撃隊(またの名を「烏組」)の隊長として活躍した彼は、明治の世になってからは宮城県内や北海道の開拓に努め、また西南戦争や日清・日露戦争にも従軍したりと、日本の国内外を問わず各地を飛び回っていました。
 そしてこの十太夫の息子である十太郎もまた、父親に負けず劣らず行動力に満ち溢れた人物でありました。
 久二年(1862)、十太郎は細谷十太夫の長男として仙台に生まれました。
 成長した彼は、若年からの夢であった海外への発展に尽くすべく、東京駒場にある農林学校(現東京大学農学部)に学び、卒業後は父・十太夫と同じく北海道庁開拓使として、北辺の開拓に携わりました。
 しかし間もなくして日清戦争が勃発。台湾が日本の領土となると、十太郎は妻子を引き連れ台湾に渡り、軍の嘱託として活躍しました。
 の後、十太郎は家族とともに厦門に渡りましたが、ある日なみ夫人に「ちょっと、一、二週間旅行してくる」と言い残すと、一人飄然と新嘉坡へと向かいました。
 そしてこれが、なみ夫人が最後に見た十太郎の姿となったのです。
 それからの数年間、なみ夫人は幼い子供たちを抱えて十太郎の帰りを待っていましたが、十太郎が帰ってくる気配は一向になく、そのうちに日露戦争が起こったため、なみ夫人は十太郎の安否を気遣いつつも最後の引揚船で日本に戻りました。
 の間、当の十太郎は一体どこにいたかというと、なんと南方の島々を渡り歩いていたのです。
 まず始めに新嘉坡に渡った十太郎は、この地がゴムの木の栽培に適していることを知るや否や、イギリス政庁に土地租借の許可を得ようとしました。しかし、イギリス側からはなかなか許可が下りなかったため「これは一筋縄ではいかない」と思った十太郎は、なんとイギリス政庁前でハンガーストライキを決行したのです。3日間も飲まず食わずで座り込んだ十太郎に対し、イギリス政庁はとうとう根負けして特別にこれを承諾しました。
 この時、十太郎は日本人として初めて、英領マレーでの土地租借を成し得たのです。
 
かし、父親譲りの親分肌に加え、金銭にも淡白な性格だった十太郎は事業に失敗。さらに悪い時には悪いことが重なるもので、悪性のマラリアに感染して生死の境を彷徨うことになったのです。
 幸運にも九死に一生を得た十太郎は「こんな疫病が蔓延する土地に長居は無用。南洋にはもっと良い土地があるはず」と新嘉坡を離れ、スマトラ、ボルネオ、セレベスなどの島々を転々とし、そして金鉱山の書記官などをして路銀を稼ぎつつ、さらにマカツサル、メナド、タルナテからニューギニアへと渡り歩きました。
 
時のニューギニアは人口が少ない上に気候も良く、その風土や気候に「ここならば日本人が来て大いに発展させることができる」と思った十太郎は、この地に腰を落ち着けるべく現地の人々と同じ生活をし、珍しい動物などの狩猟で生計を立てながら日本人が来るのを待ちました。
 十太郎は、農林学校で学んだ農業の技術を現地の人々に伝え、時には病気の治療なども行ないました。また新嘉坡で事業を失敗した原因ともなった豪放磊落な性格もこの地ではプラスに働きました。困っている人がいれば放ってはおられず、自分はその日の食べ物にも困っているにもかかわらず、相手が欲しがる物は何でも与えるという十太郎に対し、素朴な現地の人々は次第に敬慕の念を抱くようになりました。
 後に、赤い褌一つに大刀を携え、現地の人々が担ぐ輿に乗って密林の中を行く十太郎の姿が見られましたが、その様子はさながら現地の王のようであったと伝えられます。
 そして十太郎は、現地の人々が栽培しているカラボニカ(野生綿の一種)に目をつけ、これの栽培に成功して利益を上げました。
 
治四十五年(1912)、ようやく待ちに待った日本人移民がやってきました。十太郎はこれら二十名ほどの移民たちを指揮し、綿花の栽培に努めました。
 しかし、ここで綿花の運搬という大きな問題が出てきました。人手が増えて収穫量は増えたものの、栽培地のモミから集積地であるマノクワリまで運ぶ道のりは困難を極め、これには十太郎も非常に頭を悩ませました。
 そこで筏を使って川を行き来する方法をとったのですが、これが裏目に出てしまいました。
 大量の荷物を積んだ筏で、整備が成されていない河川を往来することは当然ままならず、さらに筏の転覆などのさまざまな困難にぶち当たり、租借した三百町歩の土地もとうとう借金のために手放さざるを得なくなったのです。
 
こうして十太郎はニューギニアから去ることになったわけですが、後にこの租借地は南洋貿易会社や南洋興発会社に肩代わりされ、十太郎の意志は脈々とその地に受け継がれていくことになりました。
 
和七年(1932)六月、十太郎は三十九年ぶりに祖国の土を踏むこととなりました。
 この知らせを聞いた新聞各社はこぞって十太郎とその家族の写真を紙面に載せ、
『新版「父帰る」』『ニューギニア帰りの細谷十太郎翁』などと大々的に報道しました。
 
六月七日に横浜港に着いた十太郎は、まず東京の四谷村麹町で歯科医を営んでいた長女・向井英子の家に向い、数十年ぶりの親子の対面を果たしました。
 そして長女の家で旅装を解くや否や、なみ夫人が眠る仙台へと向かいました。
 実はなみ夫人は、十太郎が帰国する七年前の大正十五年、夫の帰りを待ち侘びつつこの世を去っていました。
 十太郎は実姉・小野なお宅に赴いた後、龍雲院にあるなみ夫人の墓へ足を運びました。
 本に帰国したなみ夫人は、仙台市北四番丁で助産婦をしながら四人の子供たちを育て上げました。
 一時は音信が途絶えた十太郎とも後に連絡が取れ、夫人の元へは南方からさまざまな土産物が送られてきたそうです。
 遥か南の島々で、日本人による南方開拓という大事業と引き換えに省みることの少なかった家族のことを思い出す度に、そしてまた故郷・仙台にて妻の墓前に手を合わせたとき、十太郎は一体何を想ったことでしょうか・・・
 
の後、十太郎は故郷の仙台で九日間を過ごし、十七日に東京へ戻ります。
 
東京の長女の家には、上海の三井洋行に勤めていた長男・英郎、松竹キネマに勤めていた次男・辰夫、そして十太郎の実弟・小杉辰三(細谷十太夫の三男。父・十太夫の意志を継ぎ、龍雲院の復興を成した)らが待っていました。
 二十五年という長きにわたりニューギニアに滞在していた十太郎は、すでに六十九歳になっていました。長女・英子は四十四歳、長男・英郎は三十八歳、次男・辰夫は三十歳、そして実弟・辰三は六十五歳で実に五十年ぶりの対面でした。
 この時の十太郎の姿は、赤銅色に日焼けした顔によく整えられた長い美髯を蓄え、柔和な表情の中にも射抜くような鋭い眼光を光らせており、その様はかつて
「鴉仙」と称した頃の父・十太夫に生き写しだったということです。
 
太郎は安楽椅子に座りながら、居並ぶ子供たちに、

「みんな非常に大きくなって、知らないで道で会ったのでは分からない程です。英子とは二歳のときに仙台で別れたきり、長男の英郎はわしが台湾総督府に勤務中六歳になったので学校へ上るため内地に送り帰したきり。次女の貞枝が生まれ、辰夫が母の胎内にいたときに台湾から厦門に渡って一時音信不通となった訳でね」

 と、語りました。
 その脇から長男・英郎が、

「お父さんもこの歳ですし、遠いところまで行かなくても、日本で余生を楽しんだらどうです」

 と言うと、十太郎は、

「とんでもない。日本には俺がいなくても人は沢山あって夫々立派な仕事を持っている。だが、ニューギニヤを熟知しているものは日本広しといえども俺一人だけだからな」
「ニューギニヤを真に理解したいと云う思想堅実、身体頑強、資力も多少ある。海外雄飛に志す人々の相談相手となるつもりだ」


 と、意気も高々に笑って答えました。
 
の後、嫁ぎ先の三島からやってきた次女・貞枝(このとき三十三歳)とも対面を果たした十太郎は、再びニューギニアに赴き綿花栽培を終生の事業とすることを決意しました。
 そのために、南方へはあまり関心を持つ者がいなかった当時の日本国内の情勢を惜しんだ十太郎は、各地を遊説して南方開拓の重要性を説いて回りました。そしてこのことを聞き及んだ当時の拓務大臣・永井柳太郎をはじめとした代議士たちにより、後援会が設けられることとなりました。


細谷家墓(左)と十太郎妻・なみの墓(右)
(仙台市青葉区子平町)

 かし、ニューギニアへ渡る準備を着々と整えていた昭和八年(1933)一月二十一日、十太郎は突如病に倒れ、その五日後の二十六日午後四時、急性肺炎のため波乱に満ちた七十一年の生涯を閉じました。
 十太郎の葬儀は二十八日に東京・芝の青松寺にて行われ、永井拓相ら数多くの名士が参列し盛儀を極めました。しかし、本葬は遺言により三十日、父母や妻の待つ菩提寺・龍雲院にてしめやかに行われたとのことです。

 法名、
圖南院鵬岳雄心居士
 
太郎の死を知ったニューギニアの人々は、これを嘆き悲しみ、神社を建立してその遺徳を偲びました。
 後に南洋の島々を視察し、ニューギニアにも立ち寄った東北帝大(現東北大学)・田由助教授は、

「細谷さんといえば神様の様にされ、生前はオランダ政府の発言よりも細谷さんの方が重きをなしていたそうで、偉大な先駆者だった。この一人の開拓者の仕事をまざまざと見せられて感激してきた」

 と、細谷の活躍を語りました。
 またこれより先、地元新聞の河北新報社に勤めていた山本晃氏が、中学時代の同級生の紹介でなみ夫人と面会し、さまざまな話を聞いています。
 十太郎の南方での活躍を聞かされ、また南方から送られてきた極楽鳥をはじめとした数々の珍品を目の当たりにした山本氏は、「さすがは烏組の鴉仙居士の血を受けている快男子である」と十太郎を新聞紙上に紹介しました。

 
太郎の死後間もなく、日本は日中戦争・太平洋戦争と、泥沼の戦争への道を突き進んでいくこととなります。
 もし十太郎が生きていたら、南洋の島々の発展を誰よりも望んでいた彼の目に、その光景はどのように映ったのでしょうか・・・

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