迫町


佐沼城
(登米市迫町佐沼字内町)



佐沼城全体図
(東側・迫川対岸より撮影)
調査中



駐車場脇にある標柱



公園入り口にある案内板
 文治年間平泉藤原の臣照井太郎高直の築城と伝えられ鹿ヶ城ともいう。
 葛西大崎一揆後は津田景康の居城となった。津田七世にして所領没収となり宝暦七年亘理倫篤が高清水よりここに移り五世にして明治維新となった。
(標柱より)

 佐沼城は文治年中(一一八五〜一一八七年頃)藤原秀衛の重臣照井太郎高直によって築かれ猛鹿を猟獲し生き埋めにして城の鎮護としたことから一名鹿ヶ城とよばれている。
 奥州藤原氏滅亡の後、佐沼城は頼朝の臣、葛西の所領となったが文明の末、大崎氏の有となり、石川氏四代五十余年居城、天正十八年没収、木村伊勢守吉清の所領となったが暴政の為、葛西、大崎旧臣の一揆が起こり、平定した伊達政宗は秀吉より、この地を賜わり修築して津田氏部景康を居城させた。
 その後七代にして宝暦七年亘理倫篤、高清水より移封し明治維新に至った。
 この復元図は藩政末期の亘理氏時代のもので亘理氏所蔵の古図を沼倉徳雄氏覚書をもとにして原図を構成した。
(案内板より)



公園入り口にある石柱


本丸
調査中


佐沼代官所
(登米市迫町佐沼字錦)



校舎裏
(西側道路沿いより撮影)
 迫町佐沼地区にある佐沼小学校校舎裏東側に、佐沼代官所があったと伝えられます。



校門脇にある標柱
 藩政時代、年貢の収納、訴訟の受理、治安の維持など民政一般の監をした所。
(標柱より)



調査中 


西館(西盾城)
(登米市迫町佐沼字西館)



西館全体図
(南側・迫川堤防より撮影)
 佐沼の北郊、国道398号線沿いにある佐沼城のそのすぐ北隣の丘(かつての佐沼警察署宿舎が残る)が西館城跡といわれています。
 もともとは佐沼城と独立していたようですが、戦国時代に入ってからは佐沼城の三の丸として使用された形跡があります。







城内にある標柱・案内板
 天正十九年(一五九一)葛西・大崎一揆勢を平定した伊達政宗は、幼少より仕えていた初代湯目(津田)景康を千五百石をもって佐沼城に移封した。慶長十五年(一六一〇)相馬備えのため、亘理郡坂元に派遣されたが、五年後の元和元年(一六一五)佐沼城に帰還した。以後、七代定康に至る百六五年間にわたり佐沼郷を治めた。
 初代景康は元和二年(一六一六)長沼土手の構築や新田開発に着手して、荒廃した村の復興を図った。以来、代々新田開発や民政に力をいれた。
 また、歴代の邑主は、仙台伊達藩の要職を勤めて八千石まで加増されたが、故あって寶暦六年(一七五六)改易になった。
 ここには、初代景康 二代頼康 三代景康 四代春康 五代武康 六代廣康が葬られている。
(津田家廟所(案内板))


 天正十九年冬、津田景康米沢より佐沼城に移封、以来二代頼康、三代景康、四代春康、五代武康、六代廣康を葬っている。
 宝暦年間まで代々都市計画の推進や民政に尽力された。
(津田家廟所(標柱))


 亘理家五代倫篤、宝暦七年佐沼邑五千石を賜り高清水より佐沼城に移封、以来六代常篤、七代清胤、八代基胤、九代隆胤、十代邦畿、十一代胤篤までを葬っている。
(佐沼邑主 亘理家の墓地(標柱))

 宝暦七年(一七五七)亘理家五代倫篤が、五千石をもって高清水より佐沼城に移封された。以後、九代隆胤まで明治維新に至る百十一年間、佐沼郷を治めた。
 亘理家初代宗根は、「香の前」が政宗の寵をうけて生まれたが、故あって、茂庭綱元の子としたと伝えられている。慶長十一年(一六〇六)亘理重宗の養子となり、高清水郷を治めた。
 亘理家は、仙台藩伊達家の一家に列し、歴代の邑主は藩の要職を勤めると共に学問や芸術文化の発展に力を入れた。佐沼郷の学問は、著名な学者や文化人を輩出して内外に知られ、多くの文人や学者が佐沼を訪れた。
 ここには、五代倫篤 六代常篤 七代清胤 八代基胤 九代隆胤 十代邦畿 十一代胤篤が葬られている。
 尚、初代宗根 二代宗喬 三代元篤 四代定篤は、高清水町福現寺墓地に葬られている。
(亘理家廟所(案内板))


 白鳥の飛来地で知られる伊豆沼から、東の方角にある迫川に流入するように荒川が流れていますが、この川の河原に面する南北に長い丘が西館城跡と言われています。
 かつて警察署宿舎として使われていた建物が残る丘とは、深い切り割りによって分断されていますが、この切り割りは空濠跡とみられ、元々同じ城郭内にあったと考えられています。
 西館城と思われる北部の台地は、高さ約10m、東西約250m、南北約200mの広場となっています。
 広場の南側は旧領主である津田家の、そして北側は新領主の亘理家の菩提所となっており、多くの墓石が並んでいます。
 現在、遺構そのものはあまり残ってはいませんが、東側の民家のある辺りは二の丸らしく、ここに見られる道路は空壕跡に造られたものと思われます。また、その外側には土塁も見られます。
 城跡の北および西側は断崖となっており、往年の要害ぶりがうかがえます。



本丸
 大崎家臣・石川氏が四代(石川四郎右衛門直村入道、同豊後義誠、同丹後義広、同彦九郎)にわたって住んでいたと伝えられます。
 天正十九(1591)年に起きた葛西大崎一揆の際には、一揆軍が佐沼城に立籠り最後の抵抗を行ないました。
 最終的には、政宗が率いる伊達軍の総攻撃の前に落城しましたが、この時、同町北方にある早坂城主・石川讃岐は、石川一族でありながら政宗に内応し、伊達軍の先陣を努めました。
 これにより、まず西館城が陥落し、佐沼城落城の元となったと伝えられます。


寺田城
(登米市迫町森字東表)



寺田城全体図
(東側より撮影)
 国道346号線を西に、県道36号線を北にして挟まれるように森集落が存在します。
 その森集落の中に上行寺という寺がありますが、そこの裏山が寺田城であったと伝えられます。





墓地脇にある案内板と標柱
 平山城式の中世の城館。葛西氏臣下三浦式部(対馬)の居城と伝えられ、空堀を堺にし南側から本丸、二の丸、三の丸の三郭からなっている。現在は本丸跡が畑地、山林。ニ・三の丸は墓地、深さ数米の殻彫りの一部も現存している。
 また、守田城(森館)とも呼ばれる。
 城主と伝わる三浦氏はついては、係累、事績とも不詳であるが、「葛西家臣衆座列」に登米郡森邑住人三浦式部と、また「仙台領古城書上」には三浦式部居城とある。安永風土記には三浦対馬居住とあり、鎌倉時代から森邑に栄えた有力な豪族と推考される。
(案内板より)


 中世の城館である。(上行寺南側)に空堀をめぐらす丘陵があり、この周辺が中枢部と考えられる。)「仙台藩古城書上」に三浦式部、別書には三浦対馬の居城と伝えられている。
(標柱より)


「古城書上」には三浦式部の居城、「別書」には三浦対馬の居城とあります。
 三浦氏は、この辺りの文書では「式部様云々」との記録が多くなされているところから、佐沼・登米方面に勢力を伸ばしていたと推測されます。



上行寺


本丸と二の丸の間にある空壕跡
 南北に細長い山地が三つに区切られていますが、その堀り切りは昔の空壕跡であろうと思われます。
 中央部の丘は、現在墓地として使用されているため、かつての地形を知ることは困難となっています。
 本丸は一番南の丘と思われ、高さ約15mの台地が南北に100mほど伸びており、現在は一帯が杉林となっています。
更に3mほど下がった所に空壕がとり巻いており、それ以西の部分に畑地が広がっています。ここが三の丸であったと思われます。
 全体的に、遺構は南の丘の方に多く見られます。
 現在墓地がある中央の丘は、120平方メートル程の広さがありますが、ここは二の丸跡と思われます。
 そこから空壕を挟んで北側へと続きます。
 全体として東西約120m、南北約250mの規模となっています。
「仙台領古城書上」には、東西二十間、南北三十六間とあります。城の形式は書いていませんが、「平山城」の範囲に入るかと思われます。



入口 征服攻城委員会に戻る