大崎市古川


青塚城
(大崎市古川諏訪二丁目)



 古川市街地の北西、国道4号線と国道108号線に挟まれるようにしてあり、すぐそばには古川神社があります。
 城跡の一部は、現在古川黎明中・高校のグラウンドに使用されています。



野球場の脇にある標柱
 奥州探題大崎氏六代持詮の弟直兼の居城にはじまり、天正年中は左衛門吉春が居城したいわれ(注:原文のまま)、城の規模は東西五十二間(約九十五メートル)、南北三十二間(約五十八メートル)あったと伝えられます。
(標柱より)


「古城書上」には、城主は大崎家臣・青塚左右衛門(は古川弾正忠隆の弟)、末孫は青塚七蔵とあります。このため、この城は古川城の支城であったと思われます。
 また「風土記」には、大崎家一族、青塚左衛門尉吉春が住む、とあります。
 ちなみに、ここより約300m西に行ったところには、5世紀に造られた前方後円墳「青塚古墳」があります。



 現在は校地となっていることから、城館の遺構はほとんど残っていないようです。
 かつてこの付近一帯は低い台地が続いており、それを現在のような平地に造成したのだそうですが、おそらく当時は、周囲を水濠や土塁で囲んだ平城であったと思われます。
「仙台領古城書上」には、「
 青塚城」として、東西五十二間、南北三十二間とあり、塚ノ目村「風土記」には「青塚館」として縦八十間、横百十間とあります。


名生城
大崎市古川大崎字名生北館・〃字名生小館他)



名生城本丸
(南側より撮影)
調査中



道路脇にある説明板
 名生城は奥州探題として広く東北地方を支配した大崎氏の本拠地となったところで、広大な段丘面を利用して築城され、規模・構想の雄大さは当時の大崎氏の権勢の大きさを示しています。しかし、大崎氏は十二代義隆を最期に滅亡。その後、伊達政宗の岩出山城築城に際して豊臣秀吉に派遣された徳川家康がこの城に立ち寄ったことを最期に文献にもあらわなくなったことから間もなく廃城になったのものと考えられます。現在は農地に変わっていますが、近年の発掘調査で大館地区で大規模な溝を発見し、内館地区においては多量の焼け米が出土していることからこの地区には蔵があったものと考えられます。また現在も土塁や水濠をはじめ多くの空掘が残っており、複雑な構造を持つ大規模な中世城館であったものと想像されます。
(説明版より)



調査中


名生館官衙遺跡
大崎市古川大崎字名生北館・〃字名生小館他)



名生館官衛遺跡
(南側より撮影)
調査中



畑の中にある説明板


道路脇にある標柱
 名生館官衛遺跡は、7世紀末から10世紀に大崎地方西部を治めていた官衛(役所)の跡です。昭和55年からの発掘調査で、多数の掘立柱建物跡や竪穴式住居跡などが発見されています。なかでもこの城内地区には、周囲に板塀をめぐらした東西53m、南北61mの規模をもつ、政庁と呼ばれる役所の中心施設がおかれ、瓦葺の正殿や、南北にならぶ2棟の脇殿などが建てられていたことが判明しています。
 この役所が築かれたのは7世紀末頃で、陸奥の国府である多賀城より古い時期にすでに大崎地方にも律令支配が及んでいたことを示しており、東北の古代史を解明する上で注目されています。
(説明版より)

 七世紀末から十世紀初頭頃にかけて大崎地方西部を治めた役所跡。古代東北おける律令制浸透の過程を知るうえで極めて貴重な遺跡として、国の史跡に指定されている。
(標柱より)



調査中


古川城
大崎市古川字二ノ構)



古川城跡
(古川小学校前より撮影)
 古川市街地にある古川第一小学校の校地を中心とした一帯が、かつての古川城の跡であったといわれています。





古川小学校校門脇にある
説明板(上)
と標柱(下)
 室町時代大崎七代教兼の第6子が初めて居を構えた地と伝えられ、その後大崎家の家臣、古川刑部持慧古川弾正忠隆の居城であったが、大崎氏滅亡後一時木村伊勢守吉清の子清久が居城した。天正19年失政多く農民の一揆により失脚し、ついで伊達政宗がこの地方を領有するに及び重臣鈴木和泉元信をしてこの城に居らしめた。鈴木家三代宗良の時、正保2年(1645)桃生郡深谷に転封され、その後古川は藩直轄の地となり、城は廃止され御蔵場となった。明治時代小学校敷地となり現在古川第一小学校となっている。
 城の規模は本丸 縦50間、横70間、二ノ丸、三ノ丸あり、外廓の規模 縦300間、横700間、土櫓、馬場先、大手先等があり、本丸の周囲には堀をめぐらし、老杉等が生い茂り、東方緒絶川沿いは高い岸をなし、うっそうとして昼なお暗く、戦国時代末期の平城の典型的なものであった。
(説明板より)


 古川城は室町中期成立とみられ大崎氏の家臣古川氏代々の居城となるが大崎氏失脚後は一時木村氏の拠るところとなるが、鈴木和泉を最期に廃城となる。
(標柱より)


「古城書上」には、城主は古川刑部少輔持忠で、天文年中に誅罰されたとあります。天正の頃は古川弾正が居住し、後に木村弥市右衛門(伊勢守の子)が居住したとあります。
「風土記」にも『右城主は大崎義隆の家臣、新田安芸守頼遠(玉造郡新田城主)が住み、のち古川刑部大輔特恵(持忠か?)等が居住。天正十八年大崎家没落の後は、木村伊勢守の嫡子、弥市右衛門の尉が住んだが、右親子滅亡ののち、伊達家臣、鈴木和泉守、同七右衛門尉が居住した。寛永年中からは廃城となる』とあります。
 時代によって城主が色々と交代したようですが、元々この城は大崎家一門の古川氏が永く住んだ所です。



 小学校の校地が概ね当時の城郭跡とされているので、東西、南北ともに約250mの平城であったと推定されます。
 かつては湿原地帯の中にあり、周囲を巨大な水濠や土塁に囲まれていた上に、緒絶川をはじめ大小の河川にとり巻かれた、平城形式の城館であったと思われます。
 江戸末期に描かれた絵図面によりますと、周囲に幅30m以上の巨大な水濠が取り囲んでいたことが、また、この地に小学校が建てられた大正時代の写真からは、水濠の内側に高さ2m程の大きな土塁が一面に巡り、その上には杉林が繁っていたことが分かります。これらの土塁や林は、昭和に入ってからも長い間残っていたそうです。
 東南にあった大手門は現在通用門となっており、正門は後に新設したものだといわれます。
 小学校の玄関正面には銀杏の木がありますが、そこが本丸中心部であったと伝わっています。
 なお、中新田街道入口付近が「西館」と称されるように、古川城を中心として四方に防御網が敷かれていたと推測されます。
「仙台領古城書上」には「
 古川城」として、東西七十間、南北四十九間とあり、「同古城書立」には、東西七十間、南北五十間とあります。

 また「風土記」には、『稲葉村古城の「古館」として、竪五十間、横七十間』と、同様のスケールが記録され、更に『右は本丸と申し伝え候。四方に堀が相回り、二の丸、三の丸、外郭など引続きこれあり候事』とともに、次のような註釈がなされています。
○二ノ構屋敷
 竪七十間、横六十間、これは一名「二の丸」ともいい、南の方へ引き続くところ。
○西館
 竪百間余、横百間余、右は「三の丸」ともいい、本丸より南に引き続いてあった曲輪。
○外郭
 竪三〇〇間余、横七十間余、これは本丸西より南へ押し回わし、二ノ構、西館(二の丸、三の丸)の脇、北より南に引き続いてある。
○土櫓
 外郭戌亥(註、北西)の所に少し高くなりたる所を唱した。
○馬場先
 長さ百間余、巾二十間余。西館より本丸の間大手先まで引き続きあり、堀の形が相残り云々−
○大手先
 七日町より、右古城の通路に御座候−云々。

 以上、記録に残っている施設や曲輪などを総括すると、古川城址はとても巨大な構えとなると考えられます。
 この城の搦手ノ門は、現在、市街地の西側にある端川寺の山門となっています。




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