
佐沼城復元絵図(佐沼城跡:宮城県登米郡迫町佐沼) |
天正十九年(1591)六月二十七日、独眼竜・伊達政宗は二万を越す大軍を引き連れ、一揆勢が立て篭る佐沼城(現登米郡迫町)に押し寄せました。
佐沼城は周囲を川や沼に幾重にも囲まれ、それまで数々の戦でその堅固さを示してきた天然の要害。そこに集まった一揆勢は、葛西家一族の千葉信胤・信重兄弟を大将に、旧葛西・大崎家臣や近隣の農民など、総勢一万人以上にふくれあがっていました。
そしてその中に、かつて大崎家にその人ありとうたわれた猛将・一栗豊後(一栗兵部高春)の姿があったのです。
事の起こりは、前年の天正十八年に遡ります。
この年、豊臣秀吉は関東の北条氏を攻め滅ぼしましたが、その際小田原に参陣しなかった葛西・大崎両家は領地没収の憂き目にあいました。秀吉は家臣の木村吉清・清久親子を新たな領主として奥州に送り込んだのですが、木村親子とその家臣たちは一気に大大名に取り立てられたのを是幸いと乱暴狼藉のかぎりをつくしました。これに耐えかねた領民たちは一揆を起こし、さらにこの一揆は次々と領内に飛び火して、ついには木村親子が一揆勢によって佐沼城へと追い込まれる事態にまで陥ったのです。
この報を受けた近隣の諸大名は、木村親子を救出すべく兵を出しました。一揆鎮圧にあたって、共に鎮圧にあたった政宗と蒲生氏郷の確執や、『金の磔柱』『鶺鴒の花押』で知られる政宗謀叛の疑いなどがあったものの、なんとか木村親子の救出に成功。政宗が旧葛西・大崎領一二郡の新たな領主となることで鎮静するかにみえました。しかしその翌年、またもや領内に一揆が起こり、政宗も再び出兵することと相成ったのです。
さて、話は再び天正十九年へと戻ります。
豊後は当初、自らの居城である一栗城(現玉造郡岩出山町)に二百数十名の郎党とともに立て篭り、領内各地の一揆を鎮圧しつつ北上してくる政宗を迎え撃って華々しく討死にしようと待ち構えていました。ところが政宗は一栗城には目もくれず、東の栗原郡に向かって兵を進めはじめたのです。「小城ゆえに無視されたとあっては武士の面目が立たぬ!」と怒り心頭の豊後は、すぐさま郎党を引き連れ政宗の最終攻撃目標である佐沼城へと馬を走らせたのでありました。(一説に、豊後は大崎家の中でも親伊達派であった氏家党に組みしていたため、政宗はあえて見逃したともいわれています)
佐沼城に集まった旧葛西・大崎家臣たちは、かつては仇敵として長年争ってきたことも忘れ、共に肩を並べて政宗率いる仕置軍と互角以上に戦いました。そんな両家の古強者たちが集う一揆勢の中でも、豊後は目を見張らんばかりの働きを見せ仕置軍を苦しめました。得物の大薙刀を車輪の如く振るえば辺りは血華の大輪で満ち、また弓を射れば狙い違わず敵兵の身体を貫いたと伝えられます。
この戦の最中、仕置軍の陣営に短冊が結ばれている矢が撃ち込まれました。広げてみるとそこには、
「伊達どのは木の葉猿にも劣りたり 一つ栗をば落とし得ざれば」
と書き付けてありました。矢は豊後が放ったもので、短冊の歌は一栗城を無視した政宗に対する恨みと嘲りを詠んでいました。政宗は家臣からこの短冊を受け取ると、
「よそにのみ見れば木の間の一つ栗 終には猿の餌食なるべし」
という反歌を書き送ると共に、その人柄を惜しんで豊後を生け捕りにするよう命じました。後世の虚構ともいわれていますが、豊後の剛胆さと政宗の機知を端的に示している逸話かと思います。
しかし、豊後や鱒淵城(現登米郡東和町)城主・及川刑部をはじめとした一揆勢の奮戦も空しく、七月三日に佐沼城は落城してしまいます。
豊後は落城寸前にからくも城から脱して出羽に落ちのび、最上義光に千石で仕え鶴岡城番となりましたが、慶長十九年(1614)謀叛を起こして誅殺されたといわれています。
また一説には、乱戦の最中に味方が放った鉄砲玉に当たり、それが深手であると知るや敵味方の兵が見守るなか馬上で鎧を脱ぎ、腹を十文字に斬って自害したと伝えられています。これもまた、反骨精神あふれる豊後の最期にふさわしいものでしょう。
その後、城中に乱入した仕置軍によって、奥州戦国史上有名な『佐沼城のなで斬り』と呼ばれる虐殺が行われました。このときの一揆側の犠牲者は、城兵・非戦闘員合わせて二千人とも三千人とも言われています。
この一揆は、前年政宗が葛西・大崎家の旧領を我が物にしようとして領民を扇動したことがきっかけとなったという説があります。もしそれが本当なら、最初に一揆を扇動しておきながら翌年にはその一揆を鎮圧する側にまわった政宗に対して、豊後はせめて一矢報いんとしたのかもしれません。
最後に、豊後の祖父である一栗放牛入道のことも追記しておきます。
放牛はその名が示すとおり、若い頃は大崎家きっての剛の者と呼ばれていた男。葛西・大崎一揆の際には、放牛も郎党と共に佐沼城に入り壮絶な討死をしていますが、なんとこのとき九十二歳!
まさにこの祖父にしてこの孫あり、といったところでありましょうか。
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