line-long.gif

English 先頭に戻る

鶴屋南北作の時代物狂言である。全五幕十二場の長編だが、現在では第一幕「饗応」、第二幕「馬盥」「愛宕山」の三場だけが上演されている。今回も同様。南北の作品にしては、エロさは薄いが、大人の苛めを極めたグロさは全開。

私の戦国時代は、1560年桶狭間の戦いに始まり、1582年本能寺の変で終る。織田信長の性格分析がいろんな形で研究されているが、性格破綻者だろうが、異常者だろうが、社会病質者だろうが、私は彼が好きだ。

本能寺の変を題材とした歴史・時代小説、評論は数多あるが、どれも様々な事由をあげて、光秀が信長を恨む根拠を探すことに多くのページを費やしている。つまり、信長が光秀を嫌っていたという一点だけは、共通した認識を示しているのである。しかしながら、果たして信長は、光秀を嫌っていたのだろうか。また、光秀の方でも、真実信長を恨んでいたのだろうか。

鶴屋南北作『時今也桔梗旗揚』でも、春永が光秀に理由もなく辛く当たったということが取り沙汰されているが、信長の短気が爆発し、周囲を恐怖させたのは、何も対象が光秀に限ったことでないのではないか。そもそも信長は、周囲の思惑から遥かに離れた場所で思考し、行動した。光秀が苛められたことだけが注目されるのは、結果的に本能寺の変があったため、その理由付けをする必要に迫られてのことだったのでないかと思う。

信長が光秀の能力を正当に評価していなかったと分析するのは、間違いである。信長は光秀の能力を最大限に評価していた。だからこそ、光秀は様々な難題を解決し続けてきたのである。言うまでもなく、光秀は頗る有能だった。なぜなら、信長が光秀を登用し、仕事を与え続けたからである。

光秀が嫌っていたのは、秀吉だろうと思う。秀吉の実務能力には、それ相応の敬意を払うくらいのことはしただろう。それが大人というものだ。しかしながら、光秀の洗練された趣味教養の中には、秀吉の名が入る隙はない。

『シンデレラ』の物語を思い起こして欲しい。資産家の一人娘だったシンデレラは、実母を亡くしてから、不在がちの父親の再婚相手である継母とその連れ子の二人の義姉たちに、家事一切を押し付けられ、事ある毎に苛められる。しかしながら、魔法使いの魔法により、美しい衣装とガラスの靴を手に入れた彼女は、王子の嫁取り舞踏会へ出かけ、王子の心を捕らえることに成功する。

シンデレラは自身の運命を耐え忍ぶことしかできなかった。故に、新しい生活を手にするためには、魔法が必要だったのである。秀吉の場合はどうか。家事一切を押し付けられたのが秀吉であったなら、掃除専門のベンチャー企業でも始めるくらいの才覚は示したに違いない。実際、秀吉は自己の才覚だけで成り上がったのであり、そこに魔法が介在する余地はない。

シンデレラのガラスの靴は、単に美しいだけの靴だったわけではない。あの靴は、ダンス教育を受けることができなかったシンデレラが、舞踏会で王子とダンスを踊ることを可能にする靴だった。それ故、魔法の靴だったのである。魔法のガラスの靴は、歴然として存在する封建的階級制度を象徴している。秀吉は、ダンスが踊れないために、どこまで出世したところで、猿という階級の出身だということから逃れることができないのである。

戦国時代は下剋上の社会であったというのが、一般的な認識であろう。しかしながら、戦国大名と呼ばれる実力者たちは、元々大名だった者がほとんどで、悪くても武士であることには変わりなかった。本来、下剋上という言葉は、主君に背き、その地位を横領僭称する、相続権のない血縁者や側近を意味する。農夫から成り上がったのは、秀吉くらいのものだったのである。主君信長を討った光秀を下剋上と言う方が、秀吉をそう評価するより適切であろう。

信長は、乱暴で身嗜みに気を遣うことなどなかったかのように思っている人もあるらしい。しかしながら、あの時代、美貌であったという史料が残っているのは、武田の高坂弾正と信長くらいものだ。信長は、洗練された美貌の持ち主であり、能、謡、茶の湯、その他当時の上流階級が求められた資質の全てにおいて、優れた才能を持っていた。つまり、ダンスの名手であった。その上で、戦略戦術に長けた武将だったのである。

光秀は天下を取るために、信長を討ったわけではないと思う。本能寺を包囲した旗印が、桔梗の紋であることを知った時、信長は覚悟を決めた。有能な武将光秀であれば、信長が生き延びる隙は皆無である。しかしながら、その有能な武将であり実務家である光秀が、事後の収拾に失敗した。光秀の目的は、信長の殺害そのものだったからだ。

光秀は信長に成り代わりたかったのではなく、信長当人になりたかったのではないだろうか。光秀は、信長に己の理想を見た。しかしながら、信長自身の理想は、光秀の理解し得る限界を超えたところにある。光秀は、己の理想を己の理解の範囲に止めるために、信長を自分自身の手から失わないために、信長殺害を決意したのである。

歌舞伎座九月大歌舞伎『時今也桔梗旗揚』で光秀を演じたのは吉右衛門であったが、彼の光秀は、春永に謀反する以前に、明確な天下統一構想を持っていたことを想像させる。春永殺害は、自身の理想への第一歩に他ならない。歴史上の光秀が、吉右衛門のように自身を信じる強さを持っていたなら、或は歴史は変わっていたのかもしれない。

炎の中で自刃する時、信長は、光秀を笑ったに違いない。

劇評になっとらんな…。

先頭に戻る