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1933(昭和8)年『源氏物語』が当局から全面上演禁止の憂き目を見たことは、歌舞伎ファンにとって周知の事件であろう。社会が挙って軍事色に染まった時代だった。事は歌舞伎に留まらない。軍部の一部過激派は、不倫賛美の本、皇室を侮辱する本として、『源氏物語』自体の焚書を要求するに至る。当時、命がけで『源氏物語』を護ったと自負する国文学者も在るほどだ。東大教授で国文学者だった池田亀鑑は、こうした軍部の『源氏物語』に対する評価を、低俗な議論であるとして厳しく非難している。

確かに焚書しろという要求は馬鹿げた結論だが、池田の言う低俗の意味は、これに限定されるものではない印象を受ける。つまり、『源氏物語』の文学的評価に異論を唱えること自体を、低俗な議論であると断じているように感じるのである。更に、低俗な書物であれば構わないが、『源氏物語』は低俗ではないから、焚書に処すことは許容できないというスタンスも窺える。だとしたら、低俗であることの定義はどのようなものなのだろうか。

江戸期、武士階級の倫理観は儒教思想に基づいていたため、既に『源氏物語』は誨淫であるとして、国文学者から敬遠される傾向にあった。これと同時に、大名家では姫が輿入れする際、『源氏物語』を嫁入本として持たせたという事実が在る。研究者はこれを『源氏物語』の登場人物を引いて、婦女子の在り方を教え諭す道徳教育に用いたと考えているが、輿入れする姫は『源氏物語』によって、性道徳の現実を知ったのではないかと思えてならない。私は『源氏物語』をクオリティの高いポルノ小説だと思っている。ポルノ小説が即ち低俗であると定義するなら、『源氏物語』は立派な低俗本に違いない。

『源氏物語』が純粋な恋愛を描いているという評価の根拠は、主人公の光源氏が愛人たちに愛を語る時、どんな場合もその時は本気だということにある。複数の愛人たちに語られる愛の言葉の数々は、俯瞰すれば矛盾に満ちているのだが、光源氏本人はその都度本気なので、矛盾を感じることがない。従って、彼の恋愛は不倫ではないという考察が可能となる。池田の論理で言えば、不倫でなければ低俗ではないことになるのだろう。

今回の大藪郁子脚本による『源氏物語』は、光源氏が何時でも何処でも本気だという性質を前面に押し出した構成になっていた。新之助の光源氏は、これまで様々な様式で演じられた光源氏たちに比しても、一際群を抜いた美しさが在った。それと同時に、光源氏の子供じみた純粋さを、言葉を変えれば刹那的な正直さを、存分に表現していたと言えるだろう。確かに光源氏はそうした人物として、紫式部の『源氏物語』の中に生きている。

玉三郎の藤壺が美しかったことは言うに及ばず、菊之助の若紫も可憐だった。しかしながら、若紫が納得尽くで光源氏との性交渉に及び、結婚したという演出には些か異論がある。あれは、強姦だった。この辺りの認識のズレが、今回の『源氏物語』を面白味のない、ただのダイジェストにしてしまったのではないだろうか。

千年前、暇を持て余した未亡人が、自分の満たされなかった欲求を長編小説に仕立てて発表した。『更級日記』の作者菅原孝標女は、部屋に閉じこもって『源氏物語』を耽読したという。鎌倉期には、彼女のような『源氏物語』ファンが編纂した、数々の補完本が流布した。現在も尚、様々な『源氏物語本』が書店から消えることはない。誨淫だろうが、不倫だろうが、不道徳だろうが、『源氏物語』は面白いのである。千年に渡って読まれ続けた理由は、この一語に尽きる。

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