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松王丸に幸四郎、梅王丸に団十郎、桜丸に菊五郎、白太夫に人間国宝羽左右衛門、千代に同じく人間国宝雀右衛門とくれば、最早これ以上の配役は望めないほどの超豪華キャストと言っても過言ではない。その『菅原伝授手習鑑』が、三月歌舞伎座夜の部を飾った。

流石の人気狂言も、現在では『車引』『寺子屋』が時折一幕だけ上演されるに止まり、通しで上演されることはなくなった。そのため、話の筋は聞き知っているものの、若いファンにとっては、前後の脈絡を把握するのが難しくなっている。私自身、『車引』を初めて観劇した折には、どこが面白いのかさっぱり分からなかったものだ。今回は、このニ幕に加え、『賀の祝』が上演されたことで、なるほどそういう話だったのかと納得できる作りになっている。

四百年に渡って演じ続けられてきた歌舞伎ではあろうが、初めて歌舞伎座に足を運ぶ観客は、紛れもない初心者である。特に時代物の場合、通しで上演してもらえないものかと常々思っていたが、こうして半分だけでも通してもらうと理解も深まると改めて感じた。歌舞伎は役者を観るものだと聞き知ってはいるものの、芝居は芝居として楽しみたい。関係者に一考を促したいと思う。

さて、菅原道真の政治的失脚を縦糸に、大坂で産まれた三つ子を横糸にして構成されたのがこの『菅原伝授手習鑑』だが、全編を通して父子の別離がテーマになっている。『道明寺』の道真と養女苅屋姫の生き別れ、『賀の祝』の白太夫と桜丸の死に別れ、更に『寺子屋』の松王丸と小太郎の首別れは、父子別離三題と呼ばれるほどポピュラーで、中でも『寺子屋』の首別れは、初演当初から評判が頗る良かったという。

歌舞伎に登場する子供は皆悲運を背負っている。それが良い子となれば、最早逃げ道はない。歌舞伎においては、良い子は黙って死なねばならないからだ。小太郎は可愛い、品の良い、見るからに良い子供だった。源蔵が一目で小太郎の殺害を決心するのだから、余程良い子だったに違いない。こうした考察が可能なほど、歌舞伎の子供は可哀想な存在なのだ。

江戸期の民衆が子供の悲運に涙するのは、理由があったことだった。子供は産まれても育つかどうか分からない存在であり、自分の子供は可愛いが、あくまでも将来の働き手として重宝がられていたという事情もあろう。子供のうちに、親への孝のため、主君への忠義のために、親に代わって死ぬのであれば、有り難いことこの上ないというわけだ。親子の情に変わりはなくても、そうした道徳観が幅を利かせていた時代だった。

しかしながら、現代では、子供の人権は胎児に遡って保障されなければならない。芝居の中の子供を可哀想だと泣くのではなく、誤った道徳観に捕らわれた時代を批判するための涙が必要なのではないかと思う。

今回『寺子屋』で幸四郎演じる松王丸が見せた、桜丸への憐憫は秀逸であった。良かれと思って為した行いが、結果として主君斎世親王を追い詰めることになった桜丸が、詫びるためだけに切腹した。その行為を無駄であった、犬死であったと嘆く姿は胸に迫る。孝である、忠義であると喜んで見せるのが、歴史物の題材となる武家社会の常道だが、桜丸の切腹を無駄な死と評価する人物が在ることに、観客として一抹の安堵を覚える。『寺子屋』の良心を、松王丸の号泣に垣間見た思いがした。


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