1159年平治の乱で挙兵したのは、義賢の兄義朝だった。義朝は為義の長男で、義賢は次男、三男は義広。この平治の乱に義賢の出番はない。『源平布引滝・義賢最期』における義賢は、兄義朝が討たれた後、病気を理由に引き篭もり、平家に恭順する態度を見せながら、源氏再興の機を窺っている。この芝居は、義賢が源氏再興平家打倒の志を清盛の使者に見抜かれて、結果殺害されることになる経緯を描いた物語である。 義賢について調べようとすると、百科事典だの人名辞典だのには、義朝の弟で木曽義仲の父親という記述が見つかるに過ぎない。その出自からすれば、当時は有名人の中の有名人と言っても過言ではない存在だったはずだが、義賢自身がどういう武将だったのかについては、素人が思いつく通常の手段では全く知ることができないのである。木曽先生義賢と通称されているものの、義賢は木曽に住んだことさえないらしい。 兄義朝の知名度については、今更言葉を労する必要もない。日本史上、最も良く知られた人物の一人であると言えるだろう。三男義広について調べると、義朝には及ばないものの、かなり多くの情報を得ることができる。本名は義憲。為義の三男で、義朝の弟。母親は六条太夫重俊の娘。1180年頼朝を訪ね平家打倒の挙兵を迫ったものの拒絶され、1183年突如自力で挙兵し敗退。その後義仲に従って上洛するも、翌年には義経軍に追われて、結果討死に。波乱万丈である。しかしながら、義朝の項にも義広の項にも、義賢の名はない。 果たして日本史における義賢はどのような位置付けをなされているのか、或は歌舞伎ファンにとっての義賢は『義賢最期』という芝居以外に存在し得るのか否か。歌舞伎座六月大歌舞伎夜の部で上演されたのを機に、考えてみたいと思う。 史実では、木曽義仲は平治の乱より五年前に既に誕生しており、義賢は義仲が誕生した翌年に死亡している。義仲誕生伝説を創出するにあたって、義賢は平治の乱を生き延びる必要があった。それ故、義賢は兄義朝の挙兵に乗り遅れた弟として登場することになったのである。更に、この伝説を完成させるために、義仲が誕生する以前に、義賢の悲劇的な死が演出されたのだろう。 このように考えると、次男義仲の伝説を作り上げるために、無理矢理居場所を作られ、押し込められた凡庸な父親像が思い浮かぶ。源為義の次男であり、義朝の弟であり、義仲の父であった源氏の武将が、芝居の中で明らかに別の人生を生きている。そのことに、些かも違和感を覚えないということは、作者である並木千柳、三好松洛の劇作力を評価するより、義賢当人が余程ぼんやりした人物だったのではないかと思えてならない。 『義賢最期』という芝居が存在していることで、義賢の名前自体は、歌舞伎ファンにとって身近なものになっている。しかしながら、その実在は甚だ曖昧模糊とした霧の中にある。日本史的に俯瞰すれば、義賢は自力で名を残すための、生きるタイミング、死ぬタイミングを逃した。義賢という武将は、この芝居があったからこそ、850年の長きに渡って名前が残ることになったのかもしれない。
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