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1620(元和6)年、宇和島藩主伊達秀宗の家老山家清兵衛公頼が、惨殺された事件を宇和島騒動という。家老の名を山辺清兵衛と変え、歌舞伎として脚色されたのが、『君臣船浪宇和島』である。1873(明治6)年初演されたこの芝居は、1977(昭和52)年猿之助によって復活上演され、今回は歌舞伎座で初めての上演となった。

江戸期、歌舞伎は実際に起こった事件事故を、時を置かずに劇化上演することで、ワイドショー的な役割を果たしてきた。幕府はこうした芝居の上演を厳しく規制していたが、歌舞伎作者や役者たちは、関係者の名前や場所を巧みに変えるなどして、当局の摘発を姑息にも避け、尚且つ観客に事実を仄めかすという高度な技術を誇ってきた。幕府に直接的に上演を禁止されたり、間接的に遠慮を迫られることで上演を自粛するなど、上演の時期が遅れることがあったのは事実である。しかしながら、『君臣船浪宇和島』の初演が、事件から253年後というのは、少々長過ぎはしないだろうか。

宇和島騒動自体を調べようとしても、これが難しい。紆余曲折あって、伊達正宗の子秀宗が1614(慶長19)年十万石で入封した。その後九代続いて明治維新を迎える。宇和島藩について、この程度を調べるのは容易い。しかしながら、宇和島騒動という項は百科事典には見当たらないのである。そういうわけで、勉強不足であったところ、山家清兵衛公頼のご子孫という方から、ご先祖について教えていただいた。関戸橋さくらは、皆様からのご意見ご指摘を反映して、より正確な情報をお伝えしたいと思っています。以下の宇和島騒動に関する解説は、件の公頼のご子孫の方からのメールを参考にさせていただきました。

秀宗が宇和島に入封した時、やたらと金が要りようだった。独立するのに金がかかるのは、今も昔も変わらない。秀宗は、その金を本家仙台伊達家から借用した。つまり、宇和島藩は当初から財政難にあったわけだ。更に、徳川幕府が大坂城修復工事を命じたため、財政難は更に悪化する。この宇和島藩の財政難を打開するため、伊達正宗は、家臣の中でも特に優秀で信頼の厚かった山家清兵衛公頼を宇和島藩に派遣する。公頼は、年貢を増額することなく、財政再建を図ったため、結果的に宇和島藩藩士たちは減給を強いられることとなった。こうした状況の中、家老桜田玄蕃と公頼の対立が深まり、玄蕃派の流言を信じた藩主秀宗が、公頼暗殺を命じたため、山家一家惨殺へと展開した。これが、宇和島騒動と呼ばれている事件の概要である。

事件の12年後、桜田玄蕃が法事の最中崩壊した寺で圧死したのを皮切りに、事件に関与した人物が相次いで変死を遂げたため、一連の変死事件が公頼の怨霊の仕業であると言われるようになった。このため、和霊神社は、公頼の怨霊を鎮めるために造営されたと言われているが、公頼の身の潔白が証明された後、暗殺を後悔した藩主秀宗が、彼の供養と忠誠をたたえて造営したというのが事実だという。庶民に対して、善政を尽くした公頼は、死後も忘れられることがなく、公頼のお墓には線香が絶えなかったと伝えられている。芝居にするには絶好の事件だと思うのだが、騒動の引き金となったのが大坂城修復工事だったことが、江戸期に劇化することを困難にした一因だったと考えられる。しかしながら、事件から253年後のこととは言え、劇化されたということは、宇和島騒動が庶民にとって印象的な事件であった証左なのかもしれない。

『君臣船浪宇和島』はもちろん猿之助の演出だが、この芝居には宙乗りがない。常々、ゆっくりした空中移動に過ぎない猿之助の宙乗りに批判的だった私だが、なければないでちょっと淋しい。ファンというものは、勝手なものである。

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