


1953(昭和29)年11月に初演された、三島由紀夫の新歌舞伎である。この前年、三島は第一作の『地獄変』を発表し、大反響を呼んだ。その後を受けた二作目というわけだ。室町時代の『御伽草子』から想を得ているという話だが、三島の楽天的な側面を表現している作品と言えよう。
三島と言うと、美し気な修辞の並ぶ文章を思い浮かべてしまうが、彼自身の教養の高さのようなものが、作品に反映しているのだろうと思う。この『鰯売恋曳網』に登場する猿源氏も、鰯売りでありながら、やたらと和歌に詳しい。その詳しさを、元は姫君であったという傾城蛍火に納得させることで、観客にも納得させる作りになっている。
これは底本となった『御伽草子』自体がそういった形式をとっているからでもあるが、三島の和歌に対する素養を、そのまま猿源氏に当て嵌めたところで、昭和という時代の観客には、なかなか伝わるものではないという事情も考慮された結果であろうと思われる。平成の世ともなれば、尚更だろう。
良くも悪くも、三島は天才だった。読者、或は観客という名の凡人に、理解されてこそ作家であるとは言え、煩わしい思いもあったことだろうと推察する。
今回猿源氏を演じたのは勘九郎だったが、恋に煩悩する鰯売りの可笑し味を存分に堪能させてくれた。芸域の広さは言うまでもないが、私はこうした狂言回し的な人物を、勘九郎が勘九郎らしく演じる芝居が好きだ。
傾城蛍火の玉三郎の美しさについては、最早何も書くことなどない。しかしながら、蛍火が自身の素性を明かし、次郎太に依って本来の自己の在り様を再確認した後で見せる、高貴な倣岸さは見事だった。それまでの蛍火も、姿勢正しく、その素性を伺わせるものがあったが、最後の「さがりおろう!!!」の一喝には、観客まで平伏させるような気概が見えた。
城には戻らないと言いながら、すっかり姫君に戻ってしまっている辺り、笑わせてくれる。悲劇の傾城も結構だが、玉三郎の演じる少しばかり外れた傾城、或は姫君も観てみたいものだと思った。
他愛ない恋物語であると、成就しそうもない恋であると、馬鹿馬鹿しく思う向きもあろうかと思う。元は姫君と呼ばれていた傾城が、再び姫君と呼ばれることを捨て、傾城としての奢侈な暮らしを捨て、一介の鰯売りの妻となる。そのようなことが在り得ようか。在っても良いし、なくても良い。その後の二人がどうなったとしても、この物語の結末自体は、楽しく在って良い。
このような能天気な物語は、三島の作品としては例外的な代物であると思う向きもあろう。しかしながら、今回の勘九郎と玉三郎が見せた『鰯売恋曳網』は、三島の意に適った好演であったろうと思う。既に死んでしまった人物に、何を言っても始まらないが、三島自身に観て欲しかったと、歌舞伎座を出て暫し春雨に濡れながら、そう思った。



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