Kabuki Review by Sekidobashi Sakura

 

 そ    ね  ざ  き  し  ん じゅう

曽根崎

20061月歌舞伎座


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1703(元禄16)年大坂竹本座で初演された、近松門左衛門の世話浄瑠璃。当時世間を騒がせた心中事件を題材に、近松が書き下ろした。この作品が興業的に成功を収めたため、以後世話浄瑠璃が多く製作されるようになったという。今回は、坂田藤十郎を襲名した新藤十郎がお初を、翫雀が徳兵衛を演じている。

この『曽根崎心中』は、確かに人気狂言ではあるが、私がこの芝居を好きな理由は、その評判の骨子である心中というスキャンダラスな事件性や、心中に至る恋愛の悲劇性ではない。始めて文楽でこの芝居を観劇した時、私は究極のエロティシズムを見たと思ったのだ。

文楽では、通常女性の人形に足はない。人形遣いが、膝の部分の着物の膨らみ方に依って、足の動作を表現するのである。ところが、お初には足がある。徳兵衛が、お初の足に欲情するからだ。お初の足は、その小ささが可愛らしく、また扇情的な風情がある。徳兵衛が頬擦りしたくなるのも、頷けるというものだ。この場面のためだけに、ないはずの足がお初には存在する。私はこの事実に、エロティシズムを感じるのである。藤十郎の足は大きかった…。

文楽でのこの場面は、前述したように、存在しないはずのお初の足にエロティシズムを感じるのだが、歌舞伎においても、足が大きくても、徳兵衛がお初の足に欲情する有様を見れば、単なる足フェチでは済まされない、赤面するに値するエロティシズムを感じずにはいられないのである。

これに続いて、お初と徳兵衛は、手に手を取って心中の現場となる曽根崎の森に向かって、花道を退場するのだが、その後の九平次の悪事が露見し、窮地に陥る場面は、近松門左衛門のオリジナル作品にはない。後から書き加えられたものだという。徳兵衛の無実が判明したにも関わらず、お初と共に心中することで、その悲劇性が強調されているわけだ。とは言え、「第三場:曽根崎の森の場」は、如何にも冗漫であった。二人の心中が悲劇であることは疑いないが、この場面の描写に時間をかけると、観客はその愚かしさに気づいてしまう。とっとと死んでしまえと思ったね。今回、悪党九平次を演じたのは橋之助だったが、彼の悪党振りは、いつ見てもぞくぞくするほど小気味良い。

19歳と25歳、共に厄年の二人が心中する。この余りにも愚かな選択に、私は怯える。厄年がどうした? そう思えるような時代であり、社会であり、二人であったら、彼らは生きることを選んだだろうか。私には、彼らの思いを推察することさえできない。

天満屋でお初の仕事仲間の遊女の一人、お仲を演じたのは中村芝のぶちゃんだった。可愛いなあ。今年最初の観劇は、美味しいものなったわ。幕。(2006,1,3)


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