| Kabuki Review by Sekidobashi Sakura |
い い た い ろ う
井 伊 大 老
| 2006年4月歌舞伎座 |
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井伊直弼(1815〜1860)は、彦根藩11代藩主井伊直中の14男で、17歳から32歳までの15年間を三百俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。この間、後に直弼の参謀となる長野主膳に国学を学ぶ傍ら、熱心に茶道を学び、茶人として大成する。このまま世捨て人のような暮らしを続け、茶人の道を究めようかと考えていた頃、12代藩主となった長兄直亮の養子となったことで、直弼の運命は急展開する。直亮の死後、直弼は1850年13代彦根藩主となり、1858年からは、江戸幕府の大老に就任することになったのである。 一方江戸城では、1853年に12代将軍徳川家慶が死亡し、その子家定が13代将軍となるが、病弱であったため次の将軍候補問題が急浮上した。関係者は、前水戸藩主徳川斉昭の子一橋慶喜を支持する一橋派と、紀州藩主徳川家茂を支持する南紀派に分かれ、激しく対立した。同じ頃、1853年アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官ペリーが来航し、翌1854年幕府は日米和親条約を締結する。この条約に基づいて、1856年初代駐日総領事ハリスが就任し、日米修好通商条約の調印を迫っていた。 1858年南紀派に推されて、大老職に就任した直弼は、家茂の将軍継承を断行し、孝明天皇の勅許が得られないまま、日米修好通商条約を独断で締結した。翌1859水戸藩に対して、戊午の密勅が下される。密勅とは、正式な手続、関白の裁可を経なかったことを示しており、この直後、幕府との調整役だった関白九条尚忠は解任されている。臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡ったことで、威信を傷つけられた幕府は、勅書の内容を秘匿し、直弼による大弾圧を起こす引き金となった。尊皇攘夷派の中心人物だった梅田雲浜の逮捕を皮切りに、大弾圧が始まった。これを安政の大獄といい、連座した者は100人以上にのぼったという。件の密勅に添えられていた水戸藩家老安島帯刀宛の手紙には、井伊直弼暗殺を示唆した記述があったと伝えられており、捕縛された安島帯刀は切腹となっている。 1860年3月3日水戸藩の浪士が、登城途中の直弼を江戸城桜田門(千代田区)で襲い暗殺した。当初、水戸藩を脱藩した過激派の浪士が、薩摩藩と連絡して、薩摩軍と孝明天皇の勅書を以ってクーデターを起こす計画だったが、薩摩藩内の情勢の変化により、水戸藩浪士による直弼単独の暗殺が決行された。暗殺に参加したのは18人で、1人が斬り殺され、4人が重傷で自刃、捕縛された者11人、2人が現場から脱出して生き延びた。捕縛された11人のうち、2人が重傷のため死亡、1人が病死、4人は死罪となった。井伊家の供廻りでは、4人が現場で死亡、重傷を負った3人がその日のうちに死亡し、1人は負傷が原因で後に死亡した。計8人が死亡し、13人が負傷した。襲撃は、15分余りの間の出来事だったという。 知らせを聞いた彦根藩井伊家家中は、激昂した藩士らが水戸屋敷に討入りを叫ぶなど、一触即発の状態になった。幕府と彦根藩上層部の説得で、事なきを得た。本来、藩主が跡継ぎを決めないまま死亡した場合、家名断絶となるが、騒動になるのを恐れた幕府は、この一件を秘匿し、直弼は急病を発して、闘病したのち病死したと発表した。これは御家断絶を防ぐための措置であり、これにより減封はされたものの井伊家は改易を免れたという。 直弼が桜田門外の変で暗殺されたことにより、後に安政の大獄と呼ばれる大弾圧は収束した。幕閣では一橋派が復活、将軍家茂と皇女和宮の婚儀が成立して、公武合体路線が進められる。安政の大獄によって、幕府は深刻な人材の欠如を招き、反幕派による尊皇攘夷活動も激化の一途を辿った。この後、1864年、新撰組が京都池田屋に潜伏していた尊皇攘夷派を襲撃した事件で、倒幕が一気に加速したと考える研究者もある。しかしながら、新撰組に代表される幕末の過激派に、テロリズムを是とする思想をもたらしたのは、井伊大老暗殺事件であったことは間違いない。長野主膳の進言が、直弼に大弾圧を決行させたというのが事実であったとしても、それで直弼の責任が払拭されると考えるのは難しい。余りにも急激な時代の流れの中にあって、直弼は、確かに絶大な権力の使い道を誤ったのである。幕。(2006,4,2) |
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