Kabuki Review by Sekidobashi Sakura

 

か  ご  つ  る  べ  さ  と  の  え  い  ざ  め

籠釣瓶街酔醒

20054月歌舞伎座


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妖怪・花魁八ツ橋

1696(元禄9)年、あるいはその後の享保年間(171635)に、下野(群馬県)佐野の次郎左衛門が、吉原兵庫屋の花魁八ツ橋を斬り殺した事件に基づいて脚色された、河竹新七の作品。1888(明治21)5月東京千歳座で初演。全八幕の作品だが、現在では五幕以降が上演される。

マブでもいなけりゃ、女郎勤めなどやってられない」というのが、哀しい女たちの合言葉のような物だったらしい。好きな男のためだと思えば、愛想笑いも自分の身体も売り物と割り切ることもできようが、そうでなければ、女郎稼業など余りに辛くてできるものではないということなのだろう。売春と泥棒は人類最古の職業だという話だが、現在に至るまで、身を鬻ぐ女たちの哀しさは他に類を見ない。

『籠釣瓶』は、次郎左衛門が花魁八ツ橋に手酷く振られた挙句、凶行に及ぶという単純な物語だが、そのステレオ・タイプのドラマが今も尚健在だということは、何時の時代もこうした恋愛沙汰の修羅場が、切実な問題として観客の胸に迫る魅力を持っているからだろう。叶わぬ恋と思いながらも惚れ込んで、自分だけは裏切られることはないと、根拠もないのに過信する。それが「恋」だと言われれば、そうかと言う他ないが、金を払ってまで悩むことはないのにと思わずにいられない。

八ツ橋の歩く様、物の言い様、衣装、化粧、それら全てが、彼女が吉原の花魁であることを観客に印象づける。吉原の馬鹿げた仕来りに則った遊び方、無駄としか言いようのない数多の手続きが、八ツ橋の人間性を次第に崩壊させていく。観客は、八ツ橋の美しさに幻惑されて、彼女が人間であることすら忘れてしまうのだ。八ツ橋に象徴される吉原の花魁は、一個の人間である前に花魁なのであって、それ以外としては生きていくことさえできないだろう。

序幕での花魁道中は、空前絶後の豪華絢爛さで観客を魅惑する。この場面での玉三郎演じる八ツ橋は、最早人間ではない。花魁という名の妖怪である。その妖怪が微笑む時、誰かがその命を奪われることになるのだ。妖刀『籠釣瓶』は結果的に八ツ橋の命を奪ったが、次郎左衛門は、序幕で既に妖怪・花魁八ツ橋に取り込まれていたと言っても過言ではない。その上、八ツ橋の愛想尽かしによって、もう一度死んだようなものだ。四か月後、立花屋を再訪した次郎左衛門は、死して尚生きる亡霊のような物だったに違いない。二度死んだ次郎左衛門は、最早逝くべき場所さえないと感じていたのではないだろうか。

前回199912月に観劇した時には、花魁八ツ橋が次郎左衛門を悩殺する微笑みには、次郎左衛門を塵ほどにも意識しない無邪気さがあった。それが、この日の微笑みには、次郎左衛門を「男か…」と、「客か…」と、「またか…」と、自身が花魁という名の売春婦であること、次郎左衛門が客になるだろうことを見越した様子が見て取れた。どちらも必殺の最終兵器であることに変わりはないが、私には1999年の微笑の方が、より恐ろしく感じられた。

その八ツ橋は、情夫栄之丞と廻り部屋で会う場面から、妖怪・花魁からただの女にその印象を一変する。これ以後の八ツ橋は、情夫に義理を尽くすことに一所懸命な、普通の女に過ぎない。その女としての在り様に固執する余り、花魁として次郎左衛門に愛想尽かしをする無理が、互いを不必要なまでに傷つけることになるのである。善悪どういった場合であっても、復讐には意味がない。芝居の展開が面白くなるというのが一般的な認識なのだろうが、復讐譚は観ていて辛いこと甚だしい。

次郎左衛門が八ツ橋を殺害した刀は、この芝居の題名にある「籠釣瓶」と呼ばれる村正の作で、籠で作った釣瓶のように、水滴さえ留めることがないほどの切れ味を持つことを示している。村正作の刀剣は、様々な妖刀伝説で知られているが、家康の祖父が殺害され、父が負傷し、息子が介錯されたのが村正であったため、徳川家に対する遠慮から、村正を敬遠する傾向が生じたことが、そもそもの伝説を生んだ原因だったのではないかと考えられている。幕末になると、討幕派の志士らは、徳川家に因縁のある村正を好んで所持していたそうだ。

現在、一般の人たちが、日本刀を間近に見る機会は皆無に等しいが、東京都渋谷区にある刀剣博物館に、一振りの村正が展示されている。これは、討幕軍の総司令官だった有栖川宮熾仁親王の所持品だったもので、装飾的な要素はまるでなく、正に人を斬るという目的に則した実用品という印象がある。地味なのだ。それが村正であったという事実が、有栖川宮の意に適ったのだろう。「籠釣瓶」もまた、そうした刀だったのであろうと推察される。とは言え、村正が良く斬れることだけは、間違いない。

さて、基本的人権は全ての個人に固有の物で、これだけは平等であることを疑う者はない。しかしながら、人は個々に違った人格才能技量を以って、各々違った人生を歩まなければならない。それは必ずしも、否、決して平等ではないこともまた、確かな事実である。従って、各々が自分自身の器を正しく認識することが、幸福の最も基本的な前提条件となるのである。

八ツ橋も次郎左衛門も、それぞれの器の見積もりを誤った。勘三郎は疱瘡でできた痘痕を顔中に描いて登場するが、小細工など必要なかったのではないかと思う。この辺りが次郎左衛門と勘三郎が被るところだな。遣り過ぎ…。表面的な小細工で、観客の想像力の方向を限定してしまうのだ。誰が次郎左衛門を醜いと評価しようと、それは本人にとって問題ではないのである。次郎左衛門が、自身を醜いと思っていることが問題なのだ。更に、次郎左衛門は、八ツ橋の見せる好意と自身の醜さを天秤にかけるという勘違いを犯した。その愚かさが、八ツ橋の縁切りが、自身の醜さゆえであるという結論に集結するのである。次郎左衛門の想像力の貧困さが、悲劇を招いたわけだ。

八ツ橋もまた、情夫と言える存在が必要だっただけで、それは何も栄之丞に限ったことではなかったのではないだろうか。家族が、愛する人が信頼に足る人物でない場合もあろう。そうした時、傍らに頼るべき友がいない不幸は、行き場のない苦悩を現出する。他人の評価など千差万別ではあるが、ただ一人でも信頼するに足る人物が、何らかの助言を与えていたなら、こうまで過酷な運命は避けられたのではないだろうか。友の不在は、生きることを必要以上に困難にするという、最悪の見本をこの二人に観たような気がする。幕。(2005,4,2)


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