| Kabuki Review by Sekidobashi Sakura |
桜 姫
| 2005年6月シアターコクーン |
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1994年5月に始まった、渋谷Bunkamuraシアターコクーンで上演される「コクーン歌舞伎」も、今回で6回目を迎えた。1998年の『盟三五大切』を観た覚えがある。この時も、本水を使った雨が降った。歌舞伎の可能性を模索して、勘九郎と橋之助が始めたのが、この「コクーン歌舞伎」だが、今年は勘九郎が勘三郎を襲名したため、コクーン歌舞伎は、勘三郎なしでの公演となった。今後は、福助と橋之助兄弟が中心となって、勘三郎の二人の息子たち、勘太郎と七之助兄弟とのコラボレーションを見せてくれることだろう。その転機ともなるだろう公演が、今回の鶴屋南北作『桜姫東文章』だったわけだが、面白かったものの、演出が少々五月蝿かった印象があった。面白かったのは、鶴屋南北だったから、『桜姫』だったから、福助と橋之助だったからという理由なのかもしれない。それにしても、口上役のあさひ7オユキなる人物の登場は、明らかに無駄だった。残念…。以下は、昨年7月の歌舞伎座公演に関する評論に、加筆修正したものです。 歌舞伎に登場するお姫様たちの運命は悲惨である。橘姫は淡海のために兄蘇我入鹿を裏切り、皆鶴姫は牛若丸のために父鬼一法眼を裏切り、八重垣姫は勝頼のために父上杉謙信を裏切って狐に化けることまで厭わない。雛鳥は母親に殺害され、同じ頃、恋人の久我之助は納得尽くで切腹する。男たちが忠義のために、孝行のために自身を犠牲にするのとは裏腹に、お姫様たちは、時として自身を愛してもいない恋しい男のために、義理を捨て、忠義に抗い、親不孝の謗りを覚悟の上で、自ら悲惨な運命に身を投じるのである。 中でも、『桜姫東文章』のヒロイン桜姫の運命は、過酷を極める。強盗殺人犯にレイプされてしまうということだけでも、充分過ぎるくらいの悲惨なのに、そのレイプ犯に惚れてしまうというのは、想像を超えた悲劇であろう。おまけに妊娠してしまうというのは、悲運の極みだ。17歳である。出家する気になるのも頷けるというものだ。しかしながら、鶴屋南北の作品であるからには、桜姫の悲劇はこれに止まらない。出家を許されたものの、レイプ犯権助に再会した桜姫は、あっさりその決意の翻し、権助に身を委ねることを躊躇わない。お姫様は、自分が欲しいものを絶対に見逃すことはないのだ。こうして、前代未聞のスケベ・シーンが舞台上に展開することになるのである。福助、橋之助兄弟が演じる濡れ場は、頗るエロかった。 権助が父親と弟を殺害した犯人と知った桜姫は、権助を殺害したばかりか、自分が産んだ権助の子供まで殺害するという残虐性を見せるが、この二つの殺人は敵討ちというよりは、桜姫自身が吉田家のお姫様に戻るための通過儀礼だったのではないかと思う。殺人という最悪の方法で、権助の存在そのものを完全に否定することで、一切にけりをつけたというわけだ。都鳥の一巻が手に入り、吉田家の再興の目処が立ったからには、吉田家の没落のそもそもの原因を作った権助の死は、あってはならなかった桜姫の転落を、なかったことにしてくれる切り札のようなものだったのではないだろうか。こうして、桜姫は吉田家の息女としてのアイデンティティを再び手に入れたのである。 以前私は、桜姫が、権助がレイプ犯であるにもかかわらず、権助を愛するようになったのは、桜姫が他の男の存在を認識する前に、権助に出会ってしまったからだと考えていた。しかしながら、現在は、桜姫は、レイプ犯も、妊娠させたのも、女郎に売り飛ばしたのも、権助であったから権助を愛したのではないだろうかと思う。桜姫は権助が権助であったという、その事実に恋をしたのである。だからこそ、権助を自ら殺害する以外に、権助への恋から逃れることができなかったのだ。悲惨…。 さて、ここまでは、桜姫が現世の因縁に関する考察だったが、以下は桜姫の前世について考えてみたいと思う。桜姫を巡って対照的な運命を生きる清玄と権助を、今回は橋之助が二役で演じている。白菊丸を一人で死なせてしまった清玄は、その後の17年間を仏道に励み、新清水長谷寺の住職にまでなったが、桜姫と出会った時から、救いのない執着に囚われる。白菊丸が少年であったことから、現世での恋の成就を諦め、心中を選択したわけだが、その生まれ変わりである桜姫は、少女であった。一旦は諦めた恋が、一気に燃え上がったのも頷けるというものだが、これが清玄の一方的な感情だったことが、転落を決定づけたのである。 残月に殺害された後までも、清玄が見せる桜姫に対する激しい執着は、時として正視できないまでに愚かしく映る。桜姫が権助に感じている恋が、権助のために売春を受け入れるほどに、現実的で実際的な側面を持っているのとは裏腹に、清玄は叶わなかった白菊丸との恋の成就を、桜姫に対して求めるという対象の摩り替えを、桜姫が白菊丸の生まれ変わりであるとして正当化しており、十二分に観念的な感情だった。このような屈折した感情を、桜姫が受け入れることは、どう考えても無理な話だったのである。 近頃人気の深夜アニメ『創聖のアクエリオン』のテーマの一つが、輪廻転生であった。私はこれが苦手でね。と言うより、受け入れ難い思想だと考えている。近頃、お気に入りのショーペンハウアー先生は、「もしも死とともに知性が消滅しないとしたら、この世で学んだギリシャ語をそっくりそのままあの世にたずさえていけるというわけである」と書いている。阿呆には、どこまでも気の毒な話だということだ。 聖戦で殉死すれば、必ず天国に行くことができる。最後の審判で、天国に行ける者と地獄に落ちる者が選別される。輪廻転生を繰り返し、極楽浄土に至る。死後の世界について言及していない宗教というのは聞いたことがないが、例えば釈迦やキリストが死後の世界について、具体的に語ったという話も聞いたことがない。預言者ムハマッドに至っては、アッラー・ラ・アクバルである。 現実の生活は相対的であり、主観的なものだ。例えば、純粋数学などは、絶対的であり客観的なものの典型だが、生活者としての個人が、客観的な視点を以って自身の生活の善し悪しや、意味あいについて考えるようになることは、純粋数学に興味を持たなくても可能である。ところが、現実の生活の中で、常に主観的であるということは、死についても相対的な認識を持つことしかできない可能性を内包している。現実生活の中で、真に絶対であることとは、唯一「人は誰でも死ぬ」ということだけだ。 時間もまた相対的なものであることは、アインシュタイン先生の相対性理論で証明されたが、これは条件が違えば長生きするということではない。人が経験する量は、それぞれにとって絶対的であり、死は全ての現在が過去化することによる、存在の根本的な停止を意味することに変わりはないのだ。白菊丸は17年前に死んだ。この事実を実証するかのように、桜姫は、権助と子供を殺害する。桜姫は、この二つの殺人によって、白菊丸から引き継いだ輪廻の輪を、きっぱりと断ち切り、更に清玄の幽霊の存在をも否定して見せたのである。この時、清玄は二度死に、そして完全に死んだわけだ。清玄も嫌われたものだと思う…。 『桜姫東文章』で描かれた桜姫の悲惨な日々は、彼女の人生の僅か2年に満たない間に起こった出来事の抜粋に過ぎない。しかしながら、この短い期間に、桜姫は彼女の人生のどん底を味わい尽くした。個人としてどん底を味わったというのみならず、被差別階級「非人」に身を貶め、売春婦になるという社会の最底辺の辛酸を味わったのである。恋ゆえとは言え、桜姫の行動は、愚かな、頗る愚かな選択の積み重ねだった。その愚行は、彼女の二つの殺人に収束する。しかしながら、そのヒステリックとも言える殺人は、桜姫にとって確かに意味があったのだということは評価したい。人を殺してはいけません。幕。(2005,6,12) ○コクーン歌舞伎 1回目;1994年5月『東海道四谷怪談』 2回目;1996年8月『夏祭浪花鑑』 3回目;1998年9月『盟三五大切』 4回目;2001年6月『三人吉三』 5回目;2003年6月『夏祭浪花鑑』 6回目;2005年6月『桜姫東文章』 |
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