| Kabuki Review by Sekidobashi Sakura |
松 浦 の 太 鼓
| 2005年12月歌舞伎座 |
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1701年3月14日、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城松の廊下で、高家筆頭吉良上野介義央に刃傷に及び切腹。翌年12月14日、浅野藩遺臣赤穂浪士四十七人が吉良邸に討ち入り、上野介を殺害した。『松浦の太鼓』は、今更改めてご紹介するまでもない、しつこく書き続けてきた事件、所謂『忠臣蔵』の数多あるエピソードの一つである。 事件の本質に迫ることなく、吉良邸の隣に住まう松浦鎮信が、赤穂浪士が隣家に討入るのをドキドキしながら待っているのに、一向にその気配がないことに苛立つ様子が、滑稽に描かれている。討入った後、主君の墓前で切腹するつもりであることを告げる源吾に、歓喜する鎮信の在り様は不愉快極まりないが、勘三郎は、こうした役柄を演じるのが得意だ。特に論ずるべき特異点があるわけではなく、前述したように、事件の本質について考えなければ、面白かったというだけの芝居だった。敢えて書くとすれば、赤穂浪士の一人大高源吾の妹お縫を演じた勘太郎が、予想外に良い出来だったことぐらいだろうか。 勘三郎の長男勘太郎は、女形としては体格が青年なので、これを補うための演技力が追いつかず、評判が芳しくない。おまけにブス…。これは致命的だった。ところが、今回のお縫は、なかなか良かった。アメリカ人歌舞伎ファンである友人は、「Ah… a little. . . 」と、不満そうだったが、私はそこそこ良かったと思うぞ。でも、お縫が武家の娘であるというだけの役柄で、お姫様だったり、花魁だったりという、美しい必然がなかったことが理由だったのかもしれない。未だ、24歳かあ。頑張ってね…。 元禄泰平時代、赤穂浪士による討入りはセンセーショナルな波紋を社会にもたらした。システムとしての武士道が形骸化した当時の社会にあって、最も泥臭い、分かり易い武士道を示した赤穂浪士が社会に与えた影響は大きい。一旦は、武士道とは如何にあるべきかが、盛んに論じられたものの、これ以後、武士道は更に形骸化し、規範としての役割さえ果さなくなっていくのである。劇中の鎮信が実在したなら、これに大いに貢献したことは想像に難くない。 さて、鎮信が討入を待ちかねて苛立ったように、一向に吉良邸に討入る様子のない赤穂浪士を、不忠であると考え、更に討入に参加しなかった浪士たちを不忠者であると非難する世論が、不幸なことに当時あった。討入らなかった浪士たちには、それぞれの事情があった。そうした事情を抱えつつ、討入に参加しなかった浪士らは、世論に対して自身を正当化する術もなく、毎年の12月14日を侘しい思いで過ごすことになるのである。討入った四十七人の浪士たちの思いではなく、討入らなかった浪士らの思い、この項のタイトルに示される思いを共有すべく、この夜、私は友人と夕食を共にする。ところが、今年は忙しかった。12月14日、残業後の帰宅途上、バスの中で眠ってしまい、バス会社の車庫で目覚めるという醜態を演じてしまった。討入に参加しなかったというのではなく、参加するつもりで遅刻したような気分を味わったわ。最低の夜…。討入った赤穂浪士の皆さんと、討入らなかった浪士の皆さんに、合掌。(2005,12,3 観劇) |
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