| Kabuki Review by Sekidobashi Sakura |
た ぬ き
2004年12月歌舞伎座
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1953年新橋演舞場で初演された大佛次郎の新作歌舞伎。大佛次郎の芝居は、歴史上の有名人が登場する作品が多いが、今回の『たぬき』は、別人として生きる機会を思いがけず手に入れた男が、どのような人生観を持つに至るかを描いている。喜劇だが、滑稽な可笑しみは哀しくもあり、厭世的な雰囲気も醸し出している。 焼き場で生き返った金兵衛は、妻子を捨てて別の人生を生きることを決意する。表向きは、大店の婿養子で、女房おせきの放任を良いことに吉原界隈を遊び歩き、女まで囲っていた金兵衛だったが、逃げ出したいほど窮屈な閉塞感を覚えていた。ところが、そこからの解放は、金兵衛にとって自由を意味したわけではなかったのである。一緒に暮らそうと考えていた愛人お染には裏切られ、お染に預けていた金は取り戻したものの、一気に何もかもを失う破目に陥る。金兵衛は、図らずも、たった一人で生きることになったのである。それからの2年間、金兵衛は名前を偽り、生活の全てを偽って、嘘をつきながら、毎日を過ごすことになるわけだが、これが淋しくなくて、何を淋しいと言うのだろうか。そもそも、芝居見物にやってきたということ自体が、最も避けるべき行動だったということは金兵衛にも自覚があったことだろう。商い仲間から誘われたからとは言え、のこのこ知人がいるだろう芝居小屋に出かけてくるなど、見つけてくれと言わんばかりの行動である。里心がついたとしか、言いようがない。 本当の自分を認識して欲しいという欲求は、人間の最も基本的な本能なのではないだろうか。その自分を最も良く理解してくれるのが家族であるという結論は、個人的には些か距離を置きたいが、一般的な認識であろうと思う。人間は社会的な動物であると言われている。何らかの組織に所属しているという帰属感に安堵を覚える。その最小単位が、家族という集団なのである。核家族の弊害が取り沙汰されて久しいが、現在ではその核となる家族を構成することさえできない独居の増加が、大きな問題となっている。年々加速する高齢化、初婚年齢の高年齢化と、それに伴う出産率の低下、生活様式の多様化などが直接の原因であると考えられるが、最も深刻な問題なのは、独居する老人の生活の安全であり、自然災害が多発した今年、犠牲者の中に老人の占める割合の多さに戦慄する思いだった。2年の歳月は、金兵衛を孤立させ、不安に陥らせるに充分な時間だったのではないだろうか。 16世紀フランスの農村で、妻子を捨てて失踪した農夫マルタン・ゲールが、突然帰ってきたが、実は別人だったという前代未聞の偽亭主事件が起こった。奇妙な事件だったので今も語り継がれており、ヒットはしなかったが、1996年にはグロテスクに脚色されたミュージカルの題材にもなった。何冊か研究所が出版されているので、興味のある方は読んでみることをお薦めする。 金兵衛は本人に間違いはないのだから、偽亭主であることがバレる心配はない。しかしながら、おせきが金兵衛の帰還を喜ばない場合、金兵衛当人を偽者であると言い張ることもできるわけだ。何しろ、失踪したのではなく、死亡したとして葬式まで済んでいるのである。誰も、おせきに反対する者はいないだろう。また、おせきが金兵衛を本人であると信じないという場合も考えられる。息子梅吉は、金兵衛を父親と認め受け入れる気持ちがあることは、劇中明らかだ。金兵衛の今後は、おせきの意向一つにかかっていると言っても過言ではあるまい。 金兵衛が別人として過ごした2年という時間は、同じようにおせきにも流れていた。おせきにとっての2年間が、どのようなものだったのか、芝居は沈黙して語らない。おせきは、金兵衛の帰還を何も言わず、或いは罵りながらも迎えるのか、おせきの出方を是非とも見てみたいものだと思う。幕。(2004,12,4) |
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