Kabuki Review by Sekidobashi Sakura

さ ん  に ん  き ち   ざ  ともえの し ら  な み
三人吉三白浪


2004年2月歌舞伎座


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2003年11月、八百屋お七の事件を題材にした『松竹梅湯島掛額』を観たが、今月の『三人吉三巴白浪』の物語は、多くの点で『湯島掛額』と交錯している。『湯島掛額』は、1809(文化6)年に初演された福森久助作『其往昔恋江戸染』の「吉祥院の場」と、1856(安政3)年に初演された河竹黙阿弥作『松竹梅雪曙』の「火の見櫓の場」を繋ぎ合わせた作品で、河竹黙阿弥作『三人吉三巴』は、1860(万延1)年に初演された作品なので、『湯島掛額』は『三人吉三』の先行狂言だったわけだ。1683年自宅に放火し火刑となった八百屋お七の事件は、江戸庶民にとっては、既に馴染みのある物語だったため、どちらも多くのヴァリエーションの一つであったと言えるだろう。

『三人吉三』では、その題名通り、吉三という名を持つ三人の泥棒が登場するが、『湯島掛額』に登場するお七の恋人は、吉三郎という名である。お坊吉三の父親が将軍家から預かり、その後和尚吉三の父親が盗んだのは名刀庚申丸だったが、吉三郎も実家の重宝名刀天国を紛失している。『湯島掛額』で狂言回し的な役割を果たしている紅屋長兵衛は、紅長と呼ばれているが、和尚吉三は元は弁長という名の所化だった。おまけに、お嬢吉三は八百屋のお七と名乗っているのである。このように、二つの芝居は多くの類似点を持っているわけだ。

今回、お嬢吉三を初役で演じた玉三郎は、どたどた歩く。お嬢吉三は、男だからだ。お嬢吉三とお坊吉三は、玉三郎と仁左衛門のコンビが演じていることからも分かるように、ホモセクシュアル的な雰囲気を醸し出している。イヤホンガイドでも、殊更に、「同性愛」という言葉を使って解説していた。2000年2月に、この芝居を観た時に、歌舞伎ファンは、本当に同性愛を是認しているのか否かについて疑問に思ったものだが、今回これについての解答を発見した。歌舞伎ファンは、決して同性愛を許してはいないのである。

「あんなに男じゃなくて、良いのよ」

女性客の一人が、歌舞伎座のロビーでこう話しているのを耳にした。つまり、『三人吉三』の先行狂言が『湯島掛額』であることは明白なのだから、お嬢吉三は八百屋お七を模倣しており、お坊吉三は吉三郎を模倣していると考えられる。お嬢吉三は男でありながら、同時にお七という女なのである。彼らが寄り添い抱きあう時、観客は男女のカップルを見ているわけで、イヤホンガイドが「同性愛」を語るのは、二人が男女として恋愛関係にあることを示唆しているのである。従って、玉三郎が、お嬢吉三を男として演じる必然はなかったと、件の女性客は語ったのだ。

ぶったまげである。お嬢吉三は、女装して盗みを働いており、これには旅回りの女形だったという設定が解説的に付け加えられているが、彼の女装は趣味以外の何物でもない。お嬢吉三は、綺麗な振袖が似合うという自覚があるもんだから、着ているだけなのだ。従って、舞台上にあるお嬢吉三とお坊吉三の関係は、互いが男であることを充分認識した上で、惹かれあう関係でなくてはならないのである。

序幕で三人の吉三たちがそれぞれ腕に傷をつけ、滴る血を杯に溜めてこれを飲む。血は射精された精液であり、これを体内に取り込む行為は異性であれば受胎を、同性であればそれに勝る繋がりを意味する。もとより、性行為が全てではない。だからこそ、性的行為を伴わない義兄弟の契りが、より堅固なものとして認識されることになるのである。お坊吉三とお嬢吉三の場合は、更に現実的な性行為が加わることで、異性間の繋がりそのものを否定しかねないメッセージを含ませている。舞台で演じられる彼らの関係を、男女の恋愛関係であると認識するのは、彼らから疎外されたと感じることを拒絶する、女性客の緊急避難的な錯誤なのではないだろうか。

恋愛関係においては、男女の関係が一般的ではあるものの、現在では性別は大した問題ではないというのが建前であろうと思う。自身の性別に拘る余り、愛する対象が異性でなければならないと考えるのは、それだけで人類の半数を恋愛対象から除外するという、もったいない状況を現出することに他ならない。私個人としては、恋人が男性であることを望んでいるが、これは常識的なことだからではなく、私の趣味が選択した結果であるに過ぎない。

1月に観た芝居『BENT』では、第二次世界大戦当時の、同性愛者に対する迫害が描かれていたが、同性愛者に対する偏見は、現代社会においても、未だ根強いと言わざるを得ない。しかしながら、舞台というリアリティを殊更重要視する必要のない場であれば、一般的な慣習に支配されている観客であっても、同性愛者の存在を受け入れることは、それほど難しくないのではないだろうか。

在るものを、在るがまま受け入れる。お嬢吉三を女であると考えるのは、当たり前のことを、否定することに他ならない。男性の同性愛者が、恋人と別れたとしても、「私」を愛することにはならない。男性同士が愛し合ったとしても、女性が疎外されていることにはならないのである。歌舞伎ファンにも、男のお坊吉三を愛する、男のお嬢吉三を受け入れる器量を、期待したいもんだと思っている。

とは言え、在ったとしても受け入れられない関係も存在する。それが、近親相姦だろう。和尚吉三は、自身の弟妹であった、双子の兄妹十三郎とおとせが性交渉を持ったことを知り、二人を殺害する。兄妹だから、別れなさい。その一言が言えない。ならば、黙っていれば良かったのにと思う。既に伝吉は殺されており、知っているのは、和尚吉三当人だけなんだからね。そういうわけにもいかないと思うのは、所化上がり故かもしれないが、二人が双子の兄妹であったことを、当人たちに教えることは、それほどまでに残酷なことだったのだろうか。

仮に伝吉が生きていたら、双子たちをどうしただろうと考えてみた。別れるよう何らかの働きかけはするだろうが、それでも駄目だったら、放置したのではないだろうかと思う。殺さないことだけは、確かだな。近親相姦を是認するわけではないが、不幸な生い立ちがあったのであれば、幸せになれば良いじゃないかと思う。犬の祟りなんぞに負けてはいけない。頑張れ双子たち!!! 不道徳で、不謹慎な考えなのかもしれないが、事情を理解した確信犯というわけでもなく、知らないまま幸せになっても責める者などいないのだから、良いんじゃないの?

和尚吉三が、お坊吉三とお嬢吉三の贋首を必要としていたことが、双子殺害を決意させた直接的な原因だったというのは正しい。しかしながら、殺す理由があったからこそ、和尚吉三は実の弟妹である二人を殺害したのである。結果的に、双子の首は贋首と知れ、三人の盗賊たちは互いに刺し違えて死ぬことになる。芝居は、この結末を示唆したところで幕となるが、何とも後味の悪い幕切れではある。三人の吉三の名を持つ盗賊たちが、それなりの制裁を受けることは必至であろう。しかしながら、双子たちには罪などない。幸せになって欲しかったなあと、思わずにはいられない。幸せになろうよ。幕。(2004,2,1)


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