| Kabuki
Review by Sekidobashi Sakura
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さ く ら ひ め あ ず ま ぶ ん しょ う |
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桜姫東文章 |
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2004年7月歌舞伎座 |
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歌舞伎に登場するお姫様たちの運命は悲惨である。橘姫は淡海のために兄蘇我入鹿を裏切り、皆鶴姫は牛若丸のために父鬼一法眼を裏切り、八重垣姫は勝頼のために父上杉謙信を裏切って狐に化けることまで厭わない。雛鳥は母親に殺害され、同じ頃、恋人の久我之助は納得尽くで切腹する。男たちが忠義のために、孝行のために自身を犠牲にするのとは裏腹に、お姫様たちは、時として自身を愛してもいない恋しい男のために、義理を捨て、忠義に抗い、親不孝の謗りを覚悟の上で、自ら悲惨な運命に身を投じるのである。 中でも、『桜姫東文章』のヒロイン桜姫の運命は、過酷を極める。強盗殺人犯にレイプされてしまうということだけでも、充分過ぎるくらいの悲惨なのに、そのレイプ犯に惚れてしまうというのは、想像を超えた悲劇であろう。おまけに妊娠してしまうというのは、悲運の極みだ。17歳である。出家する気になるのも頷けるというものだ。しかしながら、鶴屋南北の作品であるからには、桜姫の悲劇はこれに止まらない。出家を許されたものの、レイプ犯権助に再会した桜姫は、あっさりその決意の翻し、権助に身を委ねることを躊躇わない。お姫様は、自分が欲しいものを絶対に見逃すことはないのだ。こうして、前代未聞のスケベ・シーンが舞台上に展開することになるのである。 バレエでは唯一スケベ場面が演じられることで知られる『カルメン』を、先頃熊川哲也が演じて話題になったことは、まだ記憶に新しい。かなり前のことになるが、『エクウス』では市村正親さんが全裸でスケベ場面を演じたことが話題になった。この時、共演者も全裸だったが、女優が全裸であることは注目されなかったような気がする。とは言え、舞台の上で性交そのものが、単に仄めかされるのではなく、あからさまに演じられるというのは、やはり衝撃的であり、興味をそそられる。一般の舞台劇やバレエでは、殊更の話題になるこうした場面は、歌舞伎では決して珍しいものではない。それも、バレエのように様式化された美に昇華するのではなく、観客の下品な興味を満たすべく、ひたすらエロく演じられるのである。 今回、桜姫と権助が互いの帯をほどきあう場面では、その後の行為への期待で、二人の指先が震えるのが見えるようだった。その後、権助と二度目の再会を果たした桜姫は、権助に女郎として売られてしまうが、女郎となった桜姫が帰宅した時、久しぶりに権助といちゃつく場面もまた、頗る級のエロさを醸し出していた。 『ベルサイユのばら』で知られる池田理代子の代表作の一つに、ロシア革命を題材とした『オルフェウスの窓』がある。主人公ユリウスは、官憲が待ち伏せていることを知らせるため、変装して彼女を訪ねてきた恋人クラウスに向かって叫ぶ。結果、クラウスは銃撃されて死亡、この時妊娠中だったユリウスはそのショックで流産する。そこまでしなくてもと思ったものだが、鶴屋南北はこれに勝る悲劇を既に書いていた。桜姫は恋人と我が子を、自らの手で殺害するに至るのである。 権助が父親と弟を殺害した犯人と知った桜姫は、権助を殺害したばかりか、自分が産んだ権助の子供まで殺害するという残虐性を見せるが、この二つの殺人は敵討ちというよりは、桜姫自身が吉田家のお姫様に戻るための通過儀礼だったのではないかと思う。殺人という最悪の方法で、権助の存在そのものを完全に否定することで、一切にけりをつけたというわけだ。都鳥の一巻が手に入り、吉田家の再興の目処が立ったからには、吉田家の没落のそもそもの原因を作った権助の死は、あってはならなかった桜姫の転落を、なかったことにしてくれる切り札のようなものだったのではないだろうか。こうして、桜姫は吉田家の息女としてのアイデンティティを再び手に入れたのである。 桜姫と白菊丸を玉三郎が二役で演じているのと同じように、桜姫を巡って対照的な運命を生きる清玄と権助を、今回は段治郎が二役で演じている。白菊丸を一人で死なせてしまった清玄は、その後の17年間を仏道に励み、新清水長谷寺の住職にまでなったが、桜姫と出会った時から、救いのない執着に囚われる。白菊丸が少年であったことから、現世での恋の成就を諦め、心中を選択したわけだが、その生まれ変わりである桜姫は、少女であった。一旦は諦めた恋が、一気に燃え上がったのも頷けるというものだが、これが清玄の一方的な感情だったことが、転落を決定づけたのである。 残月に殺害された後までも、清玄が見せる桜姫に対する激しい執着は、時として正視できないまでに愚かしく映る。桜姫が権助に感じている恋が、権助のために売春を受け入れるほどに、現実的で実際的な側面を持っているのとは裏腹に、清玄は叶わなかった白菊丸との恋の成就を、桜姫に対して求めるという対象の摩り替えを、桜姫が白菊丸の生まれ変わりであるとして正当化しており、十二分に観念的な感情だった。このような屈折した感情を、桜姫が受け入れることは、どう考えても無理な話だったのである。 以前私は、桜姫が、権助がレイプ犯であるにもかかわらず、権助を愛するようになったのは、桜姫が他の男の存在を認識する前に、権助に出会ってしまったからだと考えていた。しかしながら、桜姫は、レイプ犯も、妊娠させたのも、女郎に売り飛ばしたのも、権助であったから権助を愛したのではないだろうかと思う。桜姫は権助が権助であったという、その事実に恋をしたのである。だからこそ、権助を自ら殺害する以外に、権助への恋から逃れることができなかったのではないだろうか。悲惨…。 さて、先日来、マスコミを賑わせている女子小学生同級生殺人事件で、加害者の少女が被害者の少女に会って誤りたいと語ったことが報じられ、子供たちの死生観が問題視されるようになった。調査に依れば、多くの子供たちが、死んでも蘇る、生き返る、生まれ変わると考えていることが分かったという。 聖戦で殉死すれば、必ず天国に行くことができる。最後の審判で、天国に行ける者と地獄に落ちる者が選別される。輪廻転生を繰り返し、極楽浄土に至る。死後の世界について言及していない宗教というのは聞いたことがないが、例えば釈迦やキリストが死後の世界について、具体的に語ったという話も聞いたことがない。預言者ムハマッドに至っては、アッラー・ラ・アクバルである。 現実の生活は相対的であり、主観的なものだ。例えば、純粋数学などは、絶対的であり客観的なものの典型だが、生活者としての個人が、客観的な視点を以って自身の生活の善し悪しや、意味あいについて考えるようになることは、純粋数学に興味を持たなくても可能である。ところが、現実の生活の中で、常に主観的であるということは、死についても相対的な認識を持つことしかできない可能性を内包している。現実生活の中で、真に絶対であることとは、唯一「人は誰でも死ぬ」ということだけだ。 同一空間において時間の流れが連続していることを考える時、死は全ての現在が過去化することによる、存在の根本的な停止を意味する。従って、入水した白菊丸は、発光もしなければ、白鷺に変身したわけでもなく、ましてや桜姫として生まれ変わったりすることは金輪際ない。同じように、残月によって殺害された清玄が、桜姫に対する執着心から幽霊となって、ストーカー的に桜姫に付き纏うようなことも在り得ない。だからこそ、芝居であり、狂言であり、歌舞伎であるからには、何でも在りなのだという、常識を度外視した設定が可能なのであり、舞台上に現実生活から遊離した世界が展開することを、観客は安心して楽しむことができるのである。 愛する者たちを、自ら殺害するという最悪の選択を余儀なくされた桜姫の運命が、過酷であったことは論を待たない。しかしながら、誤った死生観を持ったが故に、余りにも安易に殺人を犯してしまった少女の未熟さに、より大きな社会的錯誤を感じるのは、やはりこの事件が実際に起こってしまった事実であることが原因だろう。恋故に女郎にまで身を落とした桜姫に、恋することも知らないまま、殺人という最悪の罪を犯してしまった加害者の少女が重なった。過酷なのは、鶴屋南北に限ったことではないのだ。幕。(2004,7,4) |
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