Girl with a Pearl Earring
4月11日日曜日、銀座まで映画を見に出かけた。『真珠の耳飾りの少女』である。フェルメールの同名の肖像画を題材としているが、『真珠の耳飾りの少女』と言うより、『青いターバンの女』と言う方が、日本では通りの良い絵だ。しかしながら、この映画では、タイトルが『真珠の耳飾りの少女』でなくてはならない理由が、描かれている。
父親が事故で失明したため、娘のグリートが働きに出ることになった。仕事は、画家のフェルメール宅での住み込みの下働き。アトリエの掃除も、彼女の仕事だ。フェルメールは、グリートが自身と同種の美意識と、優れた色彩感覚を持っていることを発見する。フェルメールは、グリートに絵の具の調合の仕方を教え、創作への共犯者めいた憧憬を共有するようになる。
フェルメールのパトロン、金満家のライフェンは、以前フェルメールに注文した絵のモデルになった女を妊娠させた。それ以後、ライフェンの注文する絵のモデルになるということは、ライフェンの餌食になることを意味するようになった。そのライフェンが、グリートをモデルにした絵を注文する。使用人のグリートは、主人には逆らえない。グリート絶体絶命の危機。フェルメールは、ライフェンと一緒にポーズを取る必要がないことを、グリートに伝えた。グリート単独での肖像画の製作が始まった。
フェルメールは、メイド用の白い頭巾を被ったままのグリートに、髪を見せてくれと頼むが、グリートは承知しない。何か巻いても良いから、とにかくその頭巾を脱いでくれと頼むフェルメールに、グリートは青い布をターバン状に巻くことで妥協点を見出す。製作途上の肖像画を見たグリートは、その出来栄えに息を飲む。
「心まで描くの!?」
絵描きは、心を描くものなのだよ。しかしながら、フェルメールは納得していない。フェルメールは、グリートの肖像画に、何かが不足していることに気づいていた。嫁さんの真珠の耳飾りだった。嫁さんが留守の間に、フェルメールはグリートの耳に、蝋燭の火で熱した針を突き刺し、穴を開ける。グリートの頬に涙が一筋流れ、耳朶からは血が滲んだ。
肖像画は完成した。何か不吉な物を感じた嫁さんは、肖像画を見せてくれるよう要求する。フェルメールは断るが、嫁さんは承知しない。絵を被った布を取り払って、嫁さんは、独り相撲の勝負に負けたことを思い知る。
「何故、私では駄目なの!?」
「君には、理解できないからだ」
死んだ方がマシと思うのは、こんな時だろう…。そしてグリートは、追い出された。幕。
フェルメールの嫁さんは、年中妊娠している。夫に愛されている結果として、大きく迫り出した腹を、誇らしげに周囲に見せつけることを楽しんでいる様子だ。夫が使用人のグリートを気に入っていることには気づいているが、彼が抱きしめるのは、紛れもなく自分自身であるという自負がある。にもかかわらず、嫁さんは、妙な不安を感じていることに戸惑いを隠せない。嫁さんには、自分の不安が、何に起因するものなのか理解できないのである。
「愛」という言葉で表現される価値観について、人は通常一元的な考えしか持てない。嫁さんは、フェルメールが愛しているのは、自分かグリートかと考える。彼と結婚しているのは自分で、その結果妊娠し、子供を産み、家庭を築いているわけだから、愛されているのは自分自身であると結論づける。この一元的な価値観においては、グリートの出る幕はない。何故なら、夫に愛される以上の幸福を、彼女は知らないからだ。
芸術に囚われた人々は、互いの顔を見ただけで、人種、国籍、性別、年齢に関わらず、同じ種族であることを認識することができる。双方が創造者である場合、共同作業は難しい。フェルメールとグリートの場合、主人と使用人という力関係が明確だったため、肖像画を描くという共同作業が、比較的容易だったと言うことができるだろう。とは言え、グリートがモデルという範疇を超えて、かなり主体的に共同作業に関与していたことは、特筆に価する。彼らは、協力者であり、共犯者であると、明確に認識していたのである。
男女間の愛情において、性交そのものが大きな意味を持っているのは確かだが、これが全てではない。とは言え、フェルメールがグリートの耳朶に穴を開けるという行為と、その結果の出血は、グリートの純潔の喪失を連想させる。彼らは、確かに互いの思いを成就させ、肖像画という作品を生み出したと言うことができるだろう。もう一つのパラレルな「愛」が、二人の間には、確かに存在したわけだ。
人は誰でも愛されたいと願うものなのだという。しかしながら、私は、多分読者諸兄も、愛されているだけでは充分ではないことを知っている。フェルメールとグリートの「愛」を、嫁さんは理解できないため、嫉妬に苦しむことになるわけだが、何に対して嫉妬しているのかを、遂に理解することはできなかった。彼女の苦しみを思う時、死んだ方がマシだと、私は思う。辛過ぎるもん。
旦那が天才で、旦那から芸術に対する思いを語られることもなく、女だから、妻だから、凡庸なまま傍らに存在することを許され、それを思い知らされるかのように、毎夜抱かれるというのは、かなり辛い日常なのではないかと思うのだ。天才の妻であることの困難さを人に問われれば、嫁さんは他と大差ないと答えるしかない。凡庸な嫁さんには、天才の夫が、寛いで凡庸になったところしか理解できないんだからね。合掌…。
フェルメールが寛ぐ時、傍らには凡庸な嫁さんが在ったが、グリートが緊張を解く時、傍らに在るのは凡庸な肉屋の息子ピーターだった。フェルメールとグリートの関係が良好に継続したのは、前述したように、主人と使用人という力関係が存在したことが、大きな要因だった。貧しい者と富める者を分ける、厳然とした階級が、ここには存在している。グリートが、フェルメールのパトロン、金満家ライフェンの餌食になりかけた時、彼女は使用人の立場の悲哀を思い知るのである。
ハイジとペーターは、結婚するんだろうなあ。クララの家に遊びに行ったハイジが、金持ちの御曹司と愛し合うようになるという構図は、現実的ではないだけではなく、社会が許さないのだということを、考えながら映画を見ていた。グリートは、自分の属する社会階層を越えることなく、肉屋の息子ピーターと抱き合うことで、芸術的創造で興奮した脳を冷却するのである。
さて、グリートを演じたのは、スカーレット・ヨハンセンという女優だが、これが実際の絵にそっくりなんだな。彼女の台詞は、極めて少なくて、表情の豊かさを見せるわけでもない。しかしながら、素晴らしい女優だと思った。こういう仕事を見たかったんだよねえ。そして、フェルメールを演じたのは、何と親父になってしまったコリン・ファースではないか。驚きです。伝説の『アナザー・カントリー』以来だわ。今回の映画では、芸術家のスケベな雰囲気が、良く出ていたと思う。拍手。
映画で描かれている物語は、以上のようなものであるが、スクリーン上で印象的だったのは、ヨーロッパの冬の寒さ、暗さであった。ベルギー在住の友人に依れば、彼の地の今年1月の日照時間は、36時間だったという。私の主治医は、冬のヨーロッパ旅行を禁じているが、納得せざるを得ない日照時間ではある。2004年2月、二条城に出かけた時、江戸時代の公務員の皆さんは、さぞ寒かったことだろうと思ったもんだが、17世紀のオランダも事情は同じなんだなあ。その極寒の大気の中で揺らめく光に、グリートは「美」の何たるかを知るのだ。寒い…。
今年90歳になった私の祖母は、冬になると、桶に湯を入れて、川で洗濯をしたそうだ。その貧しさに、私は怯える。グリートもまた、体力の限りを尽くして、洗濯に励まざるを得なかった。それが、20世紀初頭の日本の寒村の日常であり、17世紀オランダの日常だったのである。幕。