| Kabuki Review by Sekidobashi Sakura |
義 経 千 本 桜
小金吾討死
| 2004年3月歌舞伎座 |
| 『義経千本桜』は、1747年に初演された、竹田出雲、三好松洛、並木千柳合作による全五段の人形浄瑠璃である。翌年歌舞伎としても上演されて、好評を博した。『平家物語』を基にした、源平合戦の後日談である。今回上演された三段目は、維盛の生死を巡って起こる一連の事件を描いたもので、義経は登場しない。 この三段目に先立つ二段目では、知盛が義経一行と海戦を戦い、遂に碇と共に入水するという壮絶な最期を演じている。その知盛に比して、重盛の長男であり、平氏の嫡流として重んじられてきた人物であるにもかかわらず、三段目の維盛は些か迫力不足の感がある。史実では、壇の浦の戦いを生き延びた維盛は、その後出家し、改めて入水したとも、病死したとも伝えられている。 『平家物語』によれば、八島にあっても、維盛の心は都に残した妻子と共にあった。維盛は密かに八島の館を抜け出して、高野山へと向かう。同行したのは與三兵衛重景、石堂丸、舎人の武里の三人のみ。重景は、平治の乱の折、維盛の父重盛の供として討死にした、與三左衛門景康の遺児だった。維盛が出家した時、重景と石堂丸もまた出家し、熊野三山を参詣した後、揃って入水する。 重景の父がそうであったように、弥左衛門もまた重盛に旧恩ある一人だった。三段目では、維盛の父親重盛の存在が、殊更大きくクローズアップされている。重盛は性格が謹直で、武勇に優れ、忠孝心が厚かったことで知られた人物だった。弥左衛門は、重盛から託された三千両の金を中国へ運ぶ途上、これを強奪されたが、重盛は弥左衛門を咎めることなく放免した。この恩義を重く感じていた弥左衛門は、命がけで維盛を匿うことを決意する。頼朝が維盛の命を救ったのも、平治の乱の後、重盛が頼朝の命を助けたため、この旧恩に報いるためだった。 こうした中、小金吾の忠心は、維盛一人に向けられたものだった。小金吾は、最後まで維盛に同行した舎人武里がモデルだと言われている。小金吾は、元服前で前髪があったが、既に20歳頃の青年であった。戦乱に紛れて、元服する時期を逸したという設定らしい。初段で維盛の御台若菜の内侍と若君六代を救った忠臣小金吾は、追手に一人で立ち向かい、死闘の末、討死にする。 「生きて尽くせし忠義は薄く、死んで身代る忠勤厚し」 維盛はこう評するが、これでは小金吾は浮かばれない。維盛は美しい武将だったため、桜梅少将と呼ばれていた。富士川で頼朝軍と対峙した時、水鳥の羽音に驚き、戦わずして敗走したのは維盛の軍勢で、義仲軍にも敗戦している。美しかったことを除けば、全く良い所なしとも思えるが、生来の優しさが、その姿形に現れたのだと考えれば、ここで武将としての資質を云々するのは、酷なことかもしれない。 八島にあっても妻子を忘れなかった維盛ではあったが、匿われていた鮓屋で、弥左衛門の娘お里と、寝床を共にする間柄となっている。セックスはしても、正式な妻子があるので、結婚はできない。維盛はお里にこう言うが、古代から継承されてきた、日本の大らかな性道徳の在り方が窺えて面白い。桜梅少将とまで呼ばれた美貌の持ち主である維盛に対して、田舎娘のお里がどのような感情を持ったかは、察して余りある。 「一生連れ添う殿御じゃと思い込んでいたものを、二世の固めは叶わぬ、親への義理に契りしとは、情けないお情けにあずかりましたわいなあ」 この台詞に、お里の思いの全てが込められている。 権太の女房小仙もまた、哀しい運命を背負った女だった。元々小仙は女郎であったが、権太と出会ったことが、彼女の不幸を決定的なものにした。前述したように、権太が悪行に手を染めたのは、小仙の元に通うためだったが、善太郎を身篭った小仙を身請けした後も、権太の悪行は修まるどころかエスカレートしていくばかりだった。しかしながら、権太の女房であったという事実だけで、息子共々死をも意味する、若菜の内侍と六代の身代わりを承知したとは思えない。確かに権太は無法者ではあったが、最終的には、父親の窮状を打開すべく、彼なりに賢明な努力を払う。母親から金を騙し取ったのも、弥助の様子を探りたい一心から出た行動のついでだった。権太の方法論は、間違ったものだったが、意気込みは評価して良いだろう。そういう権太に、小仙は幾許かの愛情を抱いていたのだろう。不可解ではあるが、男女間に限らず、性的な意味合いを含む関係は、いつでも不可解なものなのかもしれない。 小金吾も弥左衛門も、平氏に旧恩ある人々だったが、その忠義は死をも厭わぬものだった。また、権太の示した親への孝心は、自身の命と妻子を犠牲にするほどの激しさを見せている。平氏は、政権を掌握した後、清盛が娘を中宮にするなど、藤原氏に習って貴族化したが、『義経千本桜』が書かれた一七四七年当時は、既に忠孝の概念は武家社会に深く浸透していたと考えられる。しかしながら、この時期、武士階級の権威は失墜の憂き目を見ていた。八代将軍吉宗による享保の改革が終結した直後で、幕府の財政再建のための厳しい統制が、庶民の日常生活まで脅かしたことへの蟠りが、次第に表面化していく途上にあった。 舞台の上で展開される忠孝のドラマに、初演当時の観客は冷ややかな印象を持ったのではないだろうか。だからこそ、忠義の対象であった維盛当人は、三段目の主人公でありながら、傍観者的な役回りに甘んじざるを得ず、些か激し過ぎの傾向はあるものの、庶民にも馴染みのある孝心を見せた権太が、より強烈な印象を観客に与えるべく演出されているのである。 権太が社会不適合者だったのと同じ程度に、平氏の嫡流に生まれながら、維盛もまた社会に適応できない哀しい人物だった。維盛が出家を決意したのは、滅亡した平氏一門に対する哀惜の情でも、諸行無常の仏教観に共感したからでもなく、自分自身の異質さに愛想が尽きたからなのではないだろうか。その異質さとは、そこそこの金満家の御曹司であれば許されたであろう、生まれにそぐわない凡庸さだったのかもしれない。自身の生死に起因する諸々の事件を、無関係なことのように傍観する維盛の姿に、奇異な違和感を覚えたのは、私だけではあるまい。幕。(2004,3,6) |
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