| Kabuki Review by Sekidobashi Sakura |
伊勢音頭恋寝刃
| 2004年5月歌舞伎座 |
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1796年孫福斎という若い医者が、馴染みの遊女お紺をめぐる嫉妬心から2人を殺害、7人を負傷させて自殺するという事件が起こった。3人を殺害、6人を負傷させたという説もあるが、即死が2人で、その後更に1人が死亡し、結果的に犠牲者が3人となったという意味なのかもしれない。毎度も解説しているように、江戸幕府は、実際に起こった事件事故を脚色演出して上演することを厳しく禁じていた。しかしながら、近松徳三は、この事件のワイドショー的話題性に着目し、わずか三日でこの作品を書き上げたという。TVもラジオも新聞も週刊誌も無かった時代、歌舞伎が即時性を持つ情報媒体だったという証左であろう。 それにしても、犠牲者が通常より些か多いとはいえ、余りにもありきたりな痴情の縺れから引き起こされた、よくある殺人事件という気がする。現在であってもやはり大騒ぎになり、ワイドショー番組で取り上げそうな事件ではあるが、時代を問わず、感情的で理不尽な犯罪というものに、人々は関心を引かれるのかもしれない。あんまり上品な趣味とは言えないけどね…。 この若い医師と遊女の痴情の縺れなどという事件に、一気に物語性を与えているのが、名刀青江下坂であろう。日本刀は、人を斬るためにだけ作られた武器である。試し斬りは、処刑後の死刑囚の死体が使われ、名刀の中の名刀と言われる日本刀の中には、5人もの死体を重ねても、一振りで全部の死体を二つに斬ることができるものもあったらしい。 歌舞伎の時代物では、例外なく名刀が紛失し、主人公はその責任を問われることになる。更に、名刀即ち妖刀であり、その刀を手にした者は、理不尽とも思える殺人を重ねることになるのがお約束なのである。そうした名刀に、人は魔力めいた魅力を感じ、妖刀は次々と持ち主を変えて、殺人を重ねていくのである。持ち主が殺人を犯すと言うより、刀そのものが人間の血を求めていると言っても過言ではあるまい。日本人にとって、日本刀とは、正に『指輪物語』の指輪のような存在なのだ。 今回の『伊勢音頭恋寝刃』でも、青江下坂は、福岡貢に殺人を犯させる。寝刃というのは、切れ味が鈍った刀の刃を意味するが、「油屋店先の場」「油屋奥庭の場」の場面では、鈍るどころか、かなり威勢の良い切れ味を示している。何しろ、半端な鞘まで斬ってしまうという優れものなのだ。仲居の万野にしてやられるほど迂闊な貢であれば、妖刀の魔力に抗う術も皆無だったに違いない。一旦は切腹しようとまで思い詰めるものの、突然襲ってきたとはいえ、更に男を一人斬り殺してしまうというのは、如何なものかと思わざるを得ない。貢の廓通いを諌めるほど道徳心に富んだ喜助も、貢の殺人に異を唱えることはなかったのである。 芝居の最後で、喜助が青江下坂の血糊を拭き取る場面では、恍惚とした猟奇的雰囲気を、貢ではなく喜助の方に感じたものだ。料理人という職業が、青江下坂を持つことを躊躇わせたのか、或いは刀の方で持ち主を選んだのか、喜助は青江下坂で殺人を犯す特権は与えられなかった。その後の展開を知らないので何とも言えないが、名刀青江下坂を巡って、新たな殺人が行われる可能性は否定できない。どこまでも、日本刀は自身の存在意義を忘れない。その理不尽なまでの律儀さに、刀鍛冶職人の怨念めいた情念まで感じてしまうのは、私だけではあるまい。鳥肌…。幕。(2004,5,1) |
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