Movie Review by Sekidobashi Sakura
SALOME
| 2003年11月29日土曜日、渋谷東急Bunkamuraで、スペイン映画『サロメSALOME』を見てきた。これが参った映画だった。フラメンコとバレエの融合、そしてエロティシズムの解放とでも言うべき、舞踊芸術がスクリーンに展開する。これが聖書に掲載されている物語であることを考えると、何とも大らかな話ではないかと思う。この映画は、舞台に先行して公開された。これを見たら、きっと大枚はたいて舞台を見たくなるはず。そう言っているような映画だった。 映画は、舞台に向けた練習風景から始まる。フラメンコ・ダンサーたちは、研ぎ澄まされた肉体を持つバレエ・ダンサーたちとは違って、頗る体格が良い。グラマラスなんだな。その豊満なる肉体を駆使して、ステップを踏み、舞い踊る様は、圧巻としか言い様がない。監督役のペレ・アルキュエが、振り付けの様子、衣装デザイン、舞台装置、主要ダンサーたちを紹介するという手法で、映画は進行していく。 サロメ役のアイーダ・ゴメスは、14歳でスペイン国立バレエ団に入団し、以来、国際的な舞踏家として活躍している。何しろ彼女は、アントニオ・ガデスと共演し、ホアキン・コルテスと共演していたダンサーなのである。アントニオ・ガデスは、私にフラメンコへの関心を最初に芽生えさせた人物であったし、プロが初めて認めてくれた私の文章は、ホアキン・コルテスが語った歌舞伎とフラメンコの共通点に関しての記事だった。その二人のダンサーたちと、互角に渡り合ったダンサーが、サロメを演じたのである。凄い…。 2年間に渡るホアキン・コルテスとの舞台に、閉塞感を感じたアイーダ・ゴメスは、フランスに渡った。モーリス・ベジャ−ルに招かれたのだという。こりゃまた、吃驚。恐れ入りました。その後、彼女は自分の舞踏団を結成し、本作の舞台製作に取りかかったというわけだ。 預言者ヨハネを演じたのは、ハピエル・トカというアフリカ系キューバ人のバレエ・ダンサーだ。監督は、彼に、イスラム神秘主義を連想させる踊りを要求する。それが如何なるものなのか想像もつかないが、彼の踊りには、確かに人間離れした雰囲気があった。それに、ハピエル・トマは美貌の青年であった。それだけでも、合格だわな。 ダンサーたちが、ステップを確認しながら、舞踏劇『SALOME』の振り付けが、次第に完成されていく。そして、最終的なリハーサルが、スクリーンに映し出される。それは、まさに、円熟した女サロメの愛と復讐の物語だった。勿論、台詞など必要なかった。 ユダヤの王ヘロデは、兄嫁だったヘロデアと結婚したが、預言者ヨハネに、兄嫁を娶ることは許されないと非難される。ヘロデ王はヨハネを殺害しようとしたが、彼が本当の預言者であることを恐れたため、果たせずにいた。ヘロデアの娘サロメは、ヨハネに出会い、恋に落ちる。しかしながら、ヨハネはサロメを受け入れることはない。怒ったサロメは、舞踏の褒美にヨハネの首を要求する。銀板に乗せられたヨハネの首に、口付けるサロメの様子は、多くの画家たちが描いた通りである。サロメの陥った愛の深みに恐れをなしたヘロデ王は、サロメの殺害を命じる。幕。 物語は、以上のような、極めて単純なメロドラマだが、サロメには少女特有の残酷さが感じられる。ところが、アイーダ・ゴメスのサロメは、どこまでも女を感じさせるのだな。その様子を見て、舞踏の本質を見た気がした。 そもそも舞踏とは、繁殖期にある動物が、相手の気を惹くために、ジタバタする行為に始まったと考えられる。バレエは、こうした生々しく感情的な舞踏を、芸術の域にまで昇華した。妖精のように、重力を感じさせないのは、バレエ・ダンサ−が表現しようとしている人間的な感情が、エロティシズムから解放されているからだ。ところが、フラメンコは、舞踏が本来エロい感情に根差したものであることを忘れることなく、エロくて何が悪いとばかりに、そのまま芸術にしてしまったのである。そのエネルギーが、人々を魅了して止まない理由なのだろう。 どちらかと言えば、私は、フラメンコよりバレエの方が好きだ。今回の『SALOME』も、私には、印象が強過ぎる気がした。それでも、こうして書いているのは、私の中のエロティシズムが、少しばかり変化したからかもしれない。そういう自覚は、余り嬉しい発見ではないけどね…。面白かったよ。幕。 |
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