Kabuki Review by Sekidobashi Sakura
野田版・鼠小僧
2003年8月歌舞伎座
所謂義賊という輩は、存在しないというのが、歴史上の常識である。その義賊として知られる鼠小僧は、次郎吉という名の実在した盗人で、芝居小屋の木戸番だった男の息子だったが、博打に溺れて実家を勘当されて盗人になったという。鼠小僧は、大名屋敷専門に盗みを働いていたが、松平宮内少輔の屋敷に忍び込んだ時捕えられ、1832(天保3)年市中引き回しの上処刑された。
捕縛後、鼠小僧は、およそ100件の窃盗を自白し、盗んだ金額は一万二千両に及んだが、被害にあった武家屋敷からは一件の被害届もなかったという。被害にあった武家屋敷では、警備の不備を指摘されるのを恐れて、事件を表沙汰にすることができなかったのである。日頃何かと武士階級に対して蟠りを感じていた江戸庶民の間では、自分たちに実害のなかったこともあって、鼠小僧の人気が高まった。その人気が、何時の間にか、大名から盗んだ金を貧乏人に与えていたという伝説を生み出したということだろう。その人気に当て込んで、二世松竹伯円が講釈として演じ、これを元にして、河竹黙阿弥が歌舞伎『鼠小紋春着雛形』を書いた。1857(安政4)年初演されたこの作品は、文字通り、その後の多くの鼠小僧物の雛形となったわけだ。
今回の『鼠小僧』は、野田秀樹演出による勘九郎主演の二作目だが、従来の鼠小僧物とは、大きく違う作品となった。鼠小僧が吝嗇な棺桶屋という設定は、大いに目新しい。棺桶屋が、その吝嗇さゆえに、盗人となったという事情には、奇妙な説得力があったと言えるだろう。確かに笑える発端だった。
一昨年、『研辰の討たれ』で、野田秀樹が初めて歌舞伎を演出し、大成功を収めたことは記憶に新しい。『野田版・研辰の討たれ』は、その年の演劇賞を総なめにしたらしい。『野田版・鼠小僧』もまた、チケットは即日完売の盛況ぶりで、客席の通路には、玉三郎の『天守物語』上演時以来の補助席が設置された。舞台装置も一見単純ではあるものの、良く考えられた構成で、歌舞伎座大道具の技術を存分に活用した様子が見受けられた。物語は、スピーディに展開し、勘九郎の喋りは、野田の饒舌な長台詞を無難にこなして、小劇場で上演される演劇さながらの面白味を現出した。他の役者たちも、自身らが楽しみながら、大いに気勢を吐いた印象があった。
前作で最も印象に残ったのは、福助が演じる女たちの、世間知らずな可愛らしさだった。今回の福助は、評判の貞女、実は大岡忠相の妾で、他に恋人までいる強かな女お高を演じたが、犬猿の仲のおらんと衝突する場面では、実に楽しい高慢ちきぶりを見せてくれた。そして七之助は、可愛い吝嗇家おしなを、非常に楽しく演じてくれた。福助と同じく、今後の七之助の女形にも、大いに期待させる舞台となった。
さて、私の劇評では、余り評判の芳しくない勘太郎が、今回は目明しの清吉として、大いに活躍していた。実直と言うより、馬鹿正直な正義感を持つ暑苦しい青年という印象があるが、勘太郎は正にそういう人物を舞台の上に現出した。清吉が鼠小僧を追って走る様は、正に爆走と言っても過言ではないほどの走りっぷりだった。こういう勘太郎を見るのは、非常に楽しい。そして物語は、哀しい結末へと爆走する。
映画『プラトーン』では、チャーリー・シーンが、バーンズ軍曹を殺害し、『スリーパーズ』では、殺人犯が偽証によって無罪放免された。前作の『研辰の討たれ』でも、今回の『鼠小僧』でも、同じ種類の後味の悪さが残った。面白いだけでは済まない人情劇を作りたいという意図があったのかもしれないが、もう少し湿度を落としても良かったのではないかと思う。しかしながら、勘九郎の存在自体に、些か不快指数を増す類の湿度を感じている私であれば、無理な注文であると言われても仕方がないことかもしれない。
野田版歌舞伎は、芝居として面白い。絶対に面白いと思っても、期待を裏切られることはない。今回の『鼠小僧』もまた、高い評価を得ることは間違いないだろう。そうであれば、是非とも三作目を早急に観たいものだ。また、野田と勘九郎のコラボレーションが、一時のイベントとしてではなく、歌舞伎界に定着することを期待している。
終演時、幕が引かれても拍手が止むことがなく、何やらありそうな予感がしたものだが、案の定再び幕が開いてカーテンコールとなった。花道に退場した大岡忠相を演じた三津五郎も、花道から再登場してこれに加わった。通常、歌舞伎では、カーテンコールはないが、野田秀樹演出ということでのファン・サービスだったのだろう。カーテンコール自体は嬉しいが、あんまり特別にしなくても良いと思うけど…。事実、メインの役者たち以外の役者たちには、慣れない様子が見て取れた。頑張ったんだから、もっと前に出て、観客の拍手を受けて良いのよ。そう声をかけたくなった。
さて、前述したように、歴史上、義賊という輩は存在しない。英雄、義賊、その類の存在が話題となるのは、庶民が閉塞感に押し潰されそうになっている不幸な時代であろう。確かに、幕末に向かってまっしぐらという時代、庶民が確かな原因を特定できないまま、社会不安を感じている時代だった。現実の鼠小僧は、その社会的閉塞感の象徴的な存在であったのかもしれない。幕。(2003,8,14)★English-top ★Japanese-top ★page-top