Kabuki Review by Sekidobashi Sakura

く も に ま ご う う え の の は つ は な
天衣紛上野初花

こ う ち や ま
河内山

2003年9月歌舞伎座

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これまでも、何度か観ている芝居だが、今一つ好きになれない。吉右衛門さんなんだけどなあ。笑いの壷が、パンピーな下品さに根ざしているのが気に入らないのかもしれない。どうも、笑えないんだよね。初演当時、明治14年というのは、大政奉還から14年しか経過していない時期で、江戸庶民は、未だ江戸庶民の気分のままで、武士階級がやっつけられる芝居を好んで観劇した。『河内山』は、大名がやっつけられる芝居だったので、大ヒットを博したというわけだろう。

河内山宗俊は、所謂お数寄屋坊主という役職で、江戸城内で大名の用事を勤める僧籍の公務員である。将軍の直参であるという自負心が強く、大名であっても、お数寄屋坊主を蔑ろにはできない事情があった。このため、世間の評判は余り宜しくない。宗俊もまた、上州屋の番頭の対応で窺えるように、役職を笠に着て、無理難題を要求するような男だった。その宗俊が、大名をやっつける芝居であれば、内ゲバめいて見えて当然なのだが、観客は、宗俊に自己を重ね、権力者が笑い者になる様子に喝采するのである。

そもそも宗俊が、浪路に興味を持ったのも、上州屋の娘であったからで、百両の前金を惜しむなら、そのまま放置するつもりだった。否、別の策を以って、金儲けを企んだかもしれない。ともかく、浪路は、宗俊にとって、金蔓以外の何物でもなかったのである。先ず、金ありき。それが、宗俊の変わらぬスタンスなのだ。

宗俊は、金を欲しがっている。観客も、金を欲しがっている。その共通した欲望が、観客の宗俊に対する感情移入を容易にし、宗俊の行動に爽快さを感じるのである。いくら食べても、食べ物に手を伸ばすことを止められない、飢餓感に苛まれている様子が脳裏に浮かぶ。いくら金を稼いでも、足りないと感じ、自分より容易に金を稼いでいる人を羨み、妬む。宗俊が僧侶であることが、更に、その醜悪さを増大させているのだが、共通する醜悪さは、観客にその醜さを意識させない。そんな時、私は、宝くじが当ったと言いたくなる。

以前、金満家が、スーツケース一杯の札束を見せながら、金を欲しがらない奴などいないと断言しているのをTVで見たことがある。バブル最盛期の馬鹿者の典型だったのだろう。何かをしようとする時、資金が必要になる。だから、人は金が欲しいと思うのである。欲求を達成する手段が金なのであって、欲求の先に金があるわけではない。何に金を使うのか。それが、その人物を評価する一つの指標となる。しかしながら、これは、金で買える物を欲しがっている人物であるという、些か嬉しくないレッテルを貼られるという蓋然性を内包している。

孔子に依れば、君子は常に窮するもので、この教えには、武士は食わねど高楊枝という言葉と合い通じる気概が見える。資本主義は、こうした気概すら現金に換算する価値観を、社会に蔓延させた。資本主義の過剰な厳しさは、一攫千金の幻想をちらつかせながら、庶民の日常から豊かさを奪っている。仕事に対して、相応の金を支払うこと。お金は、お金であって、それ以上でも、それ以下でもない。美しい物に対して、その値段に関わらず、美しいと感動すること。この意味を、誰もに知って欲しいものだと願っている。

現在、私はメル友のレベッカさんの肖像画を描いている。美しい彼女の肌の色は、どんな絵の具でも表現できない。その稀有な色の絵の具が、金で買えると思う人はいないだろう。いたら、馬鹿だぜ。『河内山』最後の場面で、宗俊が、「馬鹿め!!!」と言うが、これは、宗俊自身をも腐した言葉なのである。更に言えば、馬鹿なのは、観客も同じこと。その不愉快さが、私がこの芝居が好きになれない原因なのかもしれない。目先の欲望に惑わされることなく、欲望の先にあるものの本質を見極め、豊かな生活を営むことこそ、幸福というものなのではないのだろうか。今月は王子様の登場がなかった。数馬様は素敵だったけど、王子様というには些か役不足…。う〜ん。ちょっと淋しいかも…。幕。(2003,9,6)


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