| Kabuki Review by Sekidobashi Sakura |
か じ わ ら へ い ぞ
う ほまれの い し き り
梶原平三誉石切
鶴ヶ岡八幡社頭の場
2003年11月歌舞伎座
1730(享保15)年に初演された、長谷川千四、文耕堂が合作した全五段の時代物浄瑠璃『三浦大助紅梅?』の三段目を、歌舞伎に移した作品。現在では、この一幕だけが上演を重ねている。主人公の梶原平三景時は、源義経を悲運に追いやった奸物として知られているが、この芝居では思慮深い賢明な武将として描かれている。様々な性格の人物が登場し、歌舞伎の様式美に富んだ舞台として定評がある。 『梶原平三誉石切』は、二度目の観劇となる。前回は梶原を吉右衛門が演じたため、梶原鬼平などと書いた記憶があるが、今回は仁左衛門の梶原とあって、楽しみにしていた。吉右衛門の梶原には、彼独特の艶が終始発揮され、源氏に寝返るつもりであると六郎太夫に伝える場面でも、裏切者としての強かな色気があった。仁左衛門の梶原には、同じ場面でも、爽やかさが感じられ、役者の持ち味というのは、舞台を全く違った印象に塗り替えるという『ガラスの仮面』現象を実感した。 梶原平三景時は、石橋山の合戦で頼朝を救ったことから、その後頼朝に重用され、義経軍に同行して、彼のお目付け役を務めた。気の強い義経とは、何かと衝突があったらしく、屋島攻めの折、逆櫓を提案して拒否された梶原が、これを根に持って頼朝に讒言、義経の失脚を謀ったと言われている事件については、一般にもよく知られている。こうしたことから、梶原には奸物という印象が付き纏っていた。しかしながら、劇中の梶原は、頼朝の支配者としてのオーラに感銘を受け、頼朝に与することを決断した思慮深い人物として描かれている。その思慮深さとは、権謀術数の多彩さによるものではなく、あくまでも武士としての意志の堅固さに由来するものだということを、吉右衛門も仁左衛門もしっかり演じていたと言えるだろう。 この芝居の中で、最も私の注意を引いたのは、実は梶原でも大庭兄弟でも六郎太夫でもない。私は、死刑囚呑助の存在を、無視できないのである。試し斬りのために、その命を利用するというのは、単に猟奇的であるというより、人権無視も甚だしい「悪」そのものであると感じるのだ。 以前も書いたと思うが、日本刀は、人を斬るためにだけ作られた武器である。昨今は、美術品として評価されることが多いが、俣野弟が言うように、試してみなければ、刀の善し悪しは分からない。試すというのは、取りも直さず、人を斬ってみるということだ。この芝居が書かれた当時、江戸期には、試し斬りには、死刑囚の死体が使われていたそうだ。こうした事情が歴史的な事実としてあったことから、時代が下って、太平洋戦争当時、日本兵が、試し斬りと称して捕虜を殺害するという事件が勃発したのではないだろうか。劇中、試し斬りの場面では、呑助の人形が使われたが、呑助は死刑囚として処刑された後であったということが、明確である演出をするべきだったのではないかと思う。 しかしながら、六郎太夫と同じく、呑助もまた死体ではなかった。そして、梶原は、作為的に呑助だけを殺害したのである。娘梢は、父六郎太夫が生きていたことを喜んだが、観客の一人である私は、呑助の生存をも望んでいたのである。私以外の観客が、誰一人として、呑助の死を悼まないのであれば、せめて私だけでも、呑助のために合掌したい。呑んだくれでも、殺人犯でも、人間の一人であることには変わりないのだ。 この芝居が初演された当時、17世紀後半から18世紀初めにかけて、幕藩体制は一応の安定期を迎え、世の中は元禄文化の華やかな雰囲気に包まれていたものの、幕府の財政難は悪化する一方であった。そこに登場したのが八代将軍吉宗である。 吉宗は将軍独裁政治を敢行し、幕府の財政再建を果たした功績を評価される以上に、TVドラマの影響による人間的な評価が高い。しかしながら、彼の行った享保の改革は、歌舞伎ファンにとっては、とんでもなく迷惑極まりない政策であった。江戸幕府開幕以来、何度かの幕政改革が断行されているが、その度に、社会風俗に対する弾圧とも言える矯正が行われてきたのである。 社会風俗の矯正と言えば、先ず歌舞伎の華美さが問題視された。江戸期の歌舞伎役者は、笠を被らなければ、往来を歩くことさえ禁じられるという差別を甘受していた。通常この決まりを守るような役者はいないが、幕政改革となると、そうはいかない。顔が資本の役者が、揃って笠を被っての道行きである。更に、衣装・台本・所作にまで難癖をつけられたのだから、歌舞伎役者・歌舞伎ファン双方にとって、吉宗は文字通り『暴れん坊将軍』そのものだったのである。 庶民の台頭が目覚しかった元禄時代、武士階級の尊厳は失墜の憂き目を見ていた。困窮する武士を横目で見ながら、同時に自分たちの生活と楽しみを圧迫する幕府の改革政策に、江戸庶民は大いに不満を感じていた。こうした時期に、古武士の雛形とも言えるような武将の姿を、奸物として知られる梶原に当て嵌めてみせた辺りに、幕府の無謀な改革に対する作為的な当て擦りの意図を感じるのは私だけではあるまい。私だけかな? 私だけかも…。つまり、この作品もまた、作為的に梶原を演出したもので、梶原の本来の姿を描いたものではないと思うわけだ。 頼朝の傘下の一人となった後、ほとんどが無学文盲に近い粗野な関東武士たちの中に在って、芸術の才もあったらしい梶原は、頼朝の連歌の相手も務めたという。伊豆に流されていたとはいえ、京都育ちの頼朝にとって、梶原は得難い存在に思えたのかもしれない。政治的才覚もあり、武将としても優れていたわけだから、頼朝のお気に入りになるのも無理はなかったし、その結果、羨望を受け、妬みを買ったとしても不思議ではない。歴史上の人物としての梶原は、不名誉な存在だったが、事実はどうだったのか。義経贔屓が定着している日本人にとって、興味深い人物であることは疑いない。幕。(2003,11,8) |
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