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1864(元治1)年江戸市村座で初演された、『御所五郎蔵』と通称されている、河竹黙阿弥作の全六幕の世話物。柳亭種彦作の草双紙『浅間嶽面影草紙』『逢州執着譚』を脚色したもの。現在では、「五条坂出会い」「縁切」「逢州殺し」の三場だけが上演されているが、今月は前半に「時鳥殺し」、後半に「五郎蔵内」を加えての、通し上演となっている。分かり易い上、エロさ倍増のお得な舞台となった.

冒頭、玉三郎が、全然みすぼらしくないのだが、みすぼらしい巡礼姿で登場し、雲助らに輪姦されそうになるのを、染五郎演じる王子様浅間巴之丞が助ける。身寄りのない玉三郎は、そのまま染五郎に拾われることになるが、結果的に愛妾として囲われるのであれば、染五郎は身形の良い雲助と言えないことはない。同じことを意図しても、金をかけて、身形を整え、容姿も良ければ、OKなんだわと考えると、釈然としない思いが残る。とは言え、この場合、巡礼姿の玉三郎を、心から愛する善良な雲助が存在する可能性が皆無であることを考慮すれば、仕方のないことかもしれない。

時鳥(ほととぎす)という名をもらい、大名屋敷で裕福に暮らしたところで、百合の方に睨まれては、時鳥が幸福だったとは思えない。しかしながら、巡礼姿で放浪することを思えば、どのようなものであれ、一箇所に止まって、寝食に窮することのない生活は、時鳥にとって魅力的なものだったに違いない。初対面の巴之丞の愛妾となることを受け入れた時鳥を、ただ金満な暮らしを望んで、美しい体をその餌として投げ出したと、一概に責めることはできないだろう。

最終的に、時鳥は、百合の方に殺害されることになる。その殺害場面は、凄惨な美しさに溢れていた。殺人者百合の方は仁左衛門が、その被害者時鳥は玉三郎が演じているのである。ただ、命を奪うだけなら、あれほどまでに美しい必然はない。百合の方の激しい憎悪と嫉妬が、殺しの場面を、猟奇なまでに凄惨にしたのである。おまけにエロい。美しく生まれたのが身の破滅。百合の方はそう言うが、彼女は、果たして娘撫子姫のためにだけ、時鳥を憎悪したのだろうか。

娘は憎悪するわけにはいかない。主君に愛されたのが、自分でなかったことを悔やむ捌け口として、時鳥が憎悪の対象となったとのではないのだろうか。何処までも、何時までも、女であることを止められない女たちが存在する。彼女たちは、無条件に愛される権利がある。それを阻む女は、殺されても当然なのだ。合掌。

さて、もう一人の不運な女、町人の娘であった皐月は、腰元となって浅間家に仕えるが、当家の家臣須崎角弥と恋仲となり、共に主家を追われることになる。角弥は町人となり、皐月と共に地道に暮らす決意を固めるが、結果的に皐月は傾城として色町に身を沈めるのである。いかに夫のためとは言え、皐月にとって、傾城となるのは憚られたに違いない。客は取らずにいたというが、それも五郎蔵と名乗るようになった角弥に操を立ててのこと。定職を持たない五郎蔵の、派手な生活の面倒を見るために、客を取らない娼婦となった皐月の気持ちとは、一体如何なるものだったのか、私には想像することもできない。

時鳥は殺害されたが、皐月は自刃して果てる。五郎蔵が殺害したのは逢州だったが、彼は皐月を殺害するつもりだったのだから、それまでの経緯も考慮すれば、結果として、皐月は殺されたと言っても間違いではない。ここでも、五郎蔵を演じたのは仁左衛門で、皐月を演じたのは玉三郎だった。この芝居で、仁左衛門は玉三郎を二度殺していることになるわけだな。とは言え、この場面に凄惨さは感じられない。憎悪がなかったからだと思う。

仮に、五郎蔵が皐月を憎悪したまま殺害に及んだとしたら、それは凄惨な美しさを湛えた場面になるはずだったが、五郎蔵と皐月の心中場面は、奇妙なほのぼのとした雰囲気に包まれていた。何しろ、あの世での夫婦としての暮らしを約しながらの心中である。死ななければならなかった状況は、確かに不幸ではあったが、或る種の幸福感が存在したように感じられた。皐月は、幸せだったのかもしれない。だけどね、私としては、皐月のような生き方を納得するわけにはいかないのだ。

五郎蔵には就職して、地道に生活して欲しかったし、廓での遊興だけで、二百両もの借金を作った巴之丞には愛想が尽きた。彼らのような男を愛した女たちこそ、不幸である。皐月には、傾城となる前に、五郎蔵にさっさと見切りを付けて、新しい人生を始めるだけの分別を持っていて欲しかった。そうすれば、皐月は、本物の王子様を見つけることができたかもしれない。

先日、TVで、あるドキュメンタリー番組を見た。結婚したい26歳の女性が、あらゆる手を尽くして、金持ちの男をゲットしようとする様子を取材した番組だった。彼女は、乏しい給料の中から、ブランド物の時計やバッグを購入し、やはりブランド物の洋服で着飾って、お見合いパーティーに男漁りに出かける。金持ちの男は、自分の資産が減るような結婚はしない。家柄の良い男は、見劣りする家柄の女とは結婚しない。つまり、彼女は、成り上がりの女癖の悪い浪費家を探しているわけだな。そんな男は、王子様でも何でもない。

貧乏な娘を、白馬に乗った王子様が迎えに来るという物語を、私は余り好きになれないでいる。白雪姫は、王子様と共に、小人たちと暮らしていた森を去ったが、その後の生活はどのようなものだったのだろうか。実は、王子様には妻があり、愛妾としてお城で暮らす白雪姫に、周囲は冷たかったのかもしれない。とは言え、元はれっきとした王女様であった白雪姫の場合、お城での暮らしそれ自体に馴染めなかったということはないだろう。問題は、シンデレラだな。父親が裕福だったとは言え、庶民の出身であるシンデレラにとって、お城での暮らしは、決して楽ではなかったに違いない。

歌舞伎の世界は言うに及ばず、お伽噺の中にも、階級は確かに存在している。育った環境の違いが、その後の考え方に大きな影響を与えることは自明である。国際結婚が難しいのは、育った環境の習慣的な違いが原因であることが多い。そうした違いを克服するには、環境や習慣に起因する感情的な違和感を、理性で払拭し、知性で補完するしかない。金持ちの男に求婚して欲しいのなら、彼にとって不可欠な税理士か弁護士にでもなるのが、最も手っ取り早い方法であることを認識すべきだろう。お勉強しなさいね。

とは言え、何故金持ちの男に求婚されること、結婚することが、それほど重要なのか、私には理解できない。前述した26歳の女性は、海外旅行に行きたい、高級レストランに行きたいのだと言っていた。行けば良いのにと思う。自分の考えや行動は、自分自身で制御できるが、他人には他人の思惑がある。他人である金持ちの男に、高級レストランに自分を連れて行かせるという「仕事」をさせるには、どれだけのエネルギーと時間が必要なのかを、私は計算することができない。

こうした他力本願的な女性の思惑が存在することを、誰もが当然のように承認しているように感じられる。男性社会であると、人は言う。それは、売春行為、売春的行為を是認する根拠としては充分ではない。女性が、男性に対して、経済的な意味を含めた保護を期待し、交換条件として提示する性的関係に、男性は慢心してはいけない。件の26歳の女性を尊敬する必要は更々ないが、男性諸君には、女性に対して敬意を以って接して欲しい。それが、女性に、自分たちが本来持っている自立心を、再認識させることになるのではないだろうか。リストラされたら、自分と子供を養ってくれるような、女を選びなさいね。

最後に、時鳥が殺された時も、逢州が殺された時も、巴之丞が、何の役にも立たなかったことを書いておきたい。王子様の染五郎が、如何に美しかろうと、自分が愛した女たちが殺害されるのを、何の責任もないかのように傍観しているのは許せない。しかしながら、久しぶりに染五郎の王子様ぶりを観ることができて、嬉しかったことも事実だ。巴之丞は、時鳥と逢州の姉妹に、そして私にも元気をくれたわけだな。そう考えれば、彼の存在も、強ち厄介なばかりであるとは言えないかもしれない。私は、正しい面食いである。そういうわけで、女たちの、本物の王子様を求める旅は、果てしなく続く…。幕。(2003,6,7)


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