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1741(寛保元)年に初演された、文耕堂、三好松洛ら四人が合作した人形浄瑠璃。江戸時代初期に流行した仮名草子と呼ばれている、仮名文で書かれた小説の一つ『薄雪物語』を劇化した作品である。仮名草子『薄雪物語』は、園部左衛門が清水参詣の折り、薄雪を見染めて恋文を書いた。これがきっかけで、二人は恋仲になったものの、薄雪は病気で敢え無く他界し、無情を感じた左衛門が出家するという物語だ。単純ではあるが、普遍的なテーマというところか。

『新薄雪物語』は、歌舞伎では珍しく、子供たちのために二人の父親が切腹するという物語だ。歌舞伎における良い子の運命は悲惨である。親のために黙って死ぬのが、良い子の定めなのだ。ところが、左衛門も薄雪姫も良い子とは言い難い。その彼らの命を救うために、親たちは命を捨てるのである。ということは、歌舞伎における子供の運命が悲惨なのではなく、あくまでも良い子の運命が悲惨であり過酷なのだということなのだろうか。これでは、良い子の立場がない。

考えてみれば、良い子が必ずしも優遇されないのは、歌舞伎に限ったことではない。優遇されないどころか、滅多なことでは正当に評価されることさえないと言えるかもしれない。そんな状況を、良い子は自身の正当性を信じることで、耐えるのである。しかしながら、悪い子は違う。良い子でない子が悪い子であるとは思わないが、ここれは便宜的に悪い子という表現を使用することをご了承いただきたい。

悪い子は、自身をめぐるあらゆることが不当であると感じている。その中でも、自身が良い子になれないことを、最も不当であると感じているのである。だから愛せと、悪い子は言う。この論理には、亜空間飛行が可能になっても、結論に辿り着くことができない天文学的な距離の飛躍がある。そしてこれを愛するのが、親というものなのだということを、この芝居は示唆している。

正当であると言うべき何物もない時でさえ、人は不当であると感じることができる。生きていることそれ自体に意味を見出すことは、難しいことではない。自分を信じれば良いだけなのだが、時に人はこれができない。だから、他者に愛されることで、その埋め合わせがしたいわけだ。認められたいわけではない。理解して欲しいわけでもない。認められる対象になるべき何物も持っておらず、理解されるに足る思想もないからだ。このことを、私は最近になってやっとこさ知った。

左衛門と薄雪姫が、悪い子だと言っているわけではない。彼らは多少軽はずみだっただけだ。しかしながら、結果的に愚かだったという事実は否定できない。彼らが良い子であったなら、親たちが、秋月大膳の巨悪を打倒する道具となって、死なねばならなかったかもしれない。陰腹を切って尚、笑い合う親たちの姿が哀れであった。この後、二人の恋人たちがどうなったのか、私は知らない。

この芝居が、私にとって、今一つ面白味に欠けた理由は、多分、薄雪姫が美しくなかったことにあったと思う。左衛門を菊之助が演じたのだが、左衛門の美しさに薄雪姫の容貌が追いつかないのである。どうして、薄雪姫が菊之助ではないのだろうか。芝居の最中、この思いが頭の中を離れなかった。孝太郎がブスだと言うのではない。薄雪姫がブスだったのである。嗚呼、美しい姫が見たいもんだ。幕。(2002,11,2)


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