悟らない男の出家 佐々木四郎高綱は、近江源氏佐々木秀義の四男で、1180年源頼朝の挙兵に、兄定綱らと共に参じ、以後各地を転戦して、その戦功により左衛門尉に任じられた。1186年には、長門の守護になっている。東大寺の再建に尽力し、1195年に家督を子の重綱に譲り出家して高野山に入った。確かに優れた武将ではあったが、高綱が名を知られるようになった原因は、やはり宇治川の先陣争いにあるだろう。 『平家物語』に依れば、1184(寿永3)年宇治川の合戦において、高綱は梶原源太景季と先陣を争った。合戦に先立って、頼朝は景季に名馬磨墨を、高綱には名馬生月を与えた。宇治川に乗り入れた時、高綱は一歩先んじた景季に、鞍の腹帯が緩んでいると言って磨墨の足を止めさせ、その間に先陣をものにした。これを、戦功と言って誇り、恩賞を催促するのである。功名心が異常なまでに強い男だったのではないかと推察できる。 劇中、高綱が頼朝の命を救ったという石橋山の合戦については、『平家物語』の中では記述がない。1180年8月17日に挙兵した頼朝は、伊豆国目代山本兼隆を討ち、その勢いで23日相模国石橋山に布陣した。ここで、頼朝は大敗を喫する。25日には箱根山中を脱したものの、頼朝の陸上兵力は大打撃を被った。『平家物語』では、ここまでの様子を、9月2日に平家側の参謀本部にもたらされた戦況報告として記述している。 その功名心が強かったであろう高綱は、自身が正当に評価されないことに不満を持っている。否、怒っている。誰しも正当に評価されていると思える場面は、少ないのではないだろうか。そもそも、理解は好意的な誤解であるという認識がある。自己にとって都合が良い評価であれば正当であると感じ、そうでなければ不当であると感じる。しかしながら、高綱の場合、それだけではないような印象を受けた。 時勢の流れに取り残された古侍の悲哀に浸るには無骨に過ぎ、感傷的になれるほどの感性の持ち合わせもない。自身が受け入れられる余地のない世の中になったのであれば、自身の方からこれを捨て、煩わしさから解放されよう。西行法師であれば、感傷的になることもできようが、自身にはその才もない。この自嘲が、単に自嘲に終わるのではなく、高綱独自の認識に達している。高綱は自身に悟りなどないと断言するのである。「我欲を捨てて、悟りの道に入りなん」と、シャカ国のシッタータ王子は出家した。高綱にとって我欲とは即ち自我の発現であった。これを捨てることなど有り得ないのである。これを意識的にやっている辺り、ただの頑固者ではない。 新しい価値観を否応なく受け入れざるを得ない社会に在って、これに抗いながらみっともなく生き続けるには、高綱は自意識が強過ぎた。父親の仇討ちにどこまでも執着するおみのを、高綱は「悟られぬ女」であると哀れむが、このまま俗世に在っては、高綱自身もまた、おみののように哀れな姿を晒すことになりかねない。高綱はおみのの中に、自分自身の愚かしい幻影を垣間見たのではないだろうか。 劇中、高綱は、突然の出家に至った動機が、熊谷次郎直実と同じであるという。では、熊谷次郎直実とはどういった人物なのだろうか。1184年2月、一谷の合戦でこてんぱんにされた平家軍は、屋島へと逃れた。この時、平敦盛は屋島へと向かう船に乗ろうとして波打ち際に馬を走らせたが、この時、熊谷次郎直実に「敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ」と呼び止められる。 『平家物語』に依れば、呼び止められた敦盛は、取って返し、直実と取っ組み、双方落馬した。直実が首を取ろうと兜を押し退けたところ、息子小次郎と似たり寄ったりの年頃の少年であった。「薄化粧して、容顔誠に美麗なり」とある。この朝、一谷で小次郎が軽傷をおっただけで、心苦しく思ったのに、この少年が討死にしたと知ったら、父親は嘆き悲しむことだろう。しかしながら、敦盛を助けることは状況が許さなかった。「哀れ弓矢取る身程口惜しかりける事はなし」と、直実は武士であることを悔いる。結果、直実は出家するのである。高綱には、直実の感じた無情に至る深刻さが足りないと思うのは、私だけではあるまい。この場合、高綱は、直実の出家が不可解なほど突然であったことを言ったに過ぎない。 1180年頼朝挙兵、石橋山の合戦、1184年宇治川の合戦と、世間と舞台を騒がせる活躍をした高綱は、その後、頼朝の死後1203年に二代将軍頼家を北条時政が攻め、修善寺に幽閉した戦いにおいて、歌舞伎『近江源氏先陣館』に再登場する。この時、高綱の兄盛綱は時政軍に、高綱は頼家軍にと、兄弟が分かれて戦う。戦死した高綱の首実検を盛綱が行うことになるが、影武者の首であることを知られないために、高綱は一計を図る。高綱は、嫡男小四郎を盛綱の捕虜としてその陣屋に潜入させ、首実験で影武者の首が高綱の首であることを確認し、自刃せよと命じたのである。 岡本綺堂の『佐々木高綱』では無理矢理出家してしまった高綱が、出家せず、俗世であくまでも頑固で片意地な武士として生きたとしたら、忠義という言葉に過剰な意義を認識し、自身の嫡男に自刃を命じる可能性を否定できない。先に『近江源氏先陣館』を観た時には、単純に武家社会における忠義、孝行に対する歪んだ認識に憤りを覚えたものだが、今回『佐々木高綱』を観て、問題は武家社会の歪みにあると同時に、高綱というキャラクターそれ自体に起因するのではないかと感じた。哀しいよなあ…。幕。(2002,9,7)
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