4月27日土曜日、武道館で催された、東京電力主催TEPCO・1万人コンサート14th・世界劇『新かぐや姫伝説・眠り王』を観劇した。団十郎、新之助父子が主演するとあって、歌舞伎専門誌『ザ・かぶき』を発行している木挽町出版にも、取材依頼があり、ライター関戸橋さくらが取材してきたというわけだ。そういうわけで、2002年の私のゴールデン・ウィークは、無料観劇で始まった。 武道館前に設置された受付テントの報道受付で、プレス・パスとチケットを受け取ったが、係員が「良いお席で観ていただかないと…」と言った通り、1階席舞台正面の絶品の席だった。ありがたい。しかしながら、芝居それ自体は、絶品とは言い難かったんだな。 団十郎が月の王、新之助が大伴大納言を演じた。それは良い。しかしながら、勘太郎のかぐや姫は、どうにも納得がいかない。勘太郎のかぐや姫は、可憐でもなければ、美しくもなかったのである。如何に良い席とは言え、役者の顔の表情までは肉眼で観察することはできない。おまけに白塗りをしているのである。にもかかわらず、勘太郎のかぐや姫は、髭の剃り跡も青々しい青年だった。 その美しくないかぐや姫が美しいという評判を聞いて、求婚者が殺到するが、最終選考に残った5人のうち4人は、女に惚れる度に命をかけてはいられないと思う。帝は原因不明の眠りの病に陥り、世の中は闇に覆われている。為すべきことは他にある。しかしながら、我等がHERO大伴大納言は、かぐや姫とやりたい一心で、存亡の危機迫る国を2年半に渡って離れ、竜の首の玉を探し続けるのである。これが、国を救う「愛」なのか、「まごころ」なのか? そもそも、大伴大納言はやりたい一心でかぐや姫の求婚者としてエントリーしたわけだが、かぐや姫は何時大伴大納言に恋をしたのだろうか。無理難題の贈り物を要求する時、大伴大納言に竜の首の玉を割り振ったのは、かぐや姫がその存在を知る唯一の品物だったことを考えると、既に好意を持っていたことがわかる。それなら最初から、大伴大納言にOKのお返事をすれば良かった。2年半もの間、国を離れさせ、危険に陥れる必然などなかったのである。 更に、かぐや姫は、一旦は月に帰ったものの、月姫として再登場する。かぐや姫は月姫と同一人物であったのだと、大伴大納言は納得し、二人は愛し合うようになるわけだ。かぐや姫が去った悲しみを、大伴大納言はすっかり忘れてしまう。月姫は、朝廷に出仕する大伴大納言を、密かに恋していたのだろう。紆余曲折を経て、大伴大納言を手に入れたのだと考えれば、月姫は確かにかぐや姫であったのかもしれない。だとしたら、宙乗りまでして月に去ったかのように見せたことに、一体何の意味があったのだろうか。全ては眠り王帝の夢だった。これが真相なのかい? さて、ク・ナウカという劇団がある。ク・ナウカの舞台では、一人の登場人物を、二人の役者が演じる。実際に動く役者と台詞を担当する役者の二人が、絶妙なコンビネーションで、一人の登場人物を舞台上に創造するのである。今回の『眠り王』は、一種のミュージカルだと言えるが、その歌の部分をクラシック歌手が担当した。10人ほどのソリストが、舞台とオーケストラ・ピットの間に並び、それぞれが登場人物の歌の部分を演じるのである。 こうした演出自体は、ク・ナウカと同じ手法なので、目新しいものとはいえないが、ソリストに照射されるスポット・ライトは余計だった。大伴大納言の歌を演じたのは錦織健だったが、彼にスポット・ライトがあたると、舞台上の大伴大納言は新之助になってしまうんだな。新之助と錦織健の共同作業によって創造された大伴大納言と言うよりも、最早錦織健の独壇場だった。錦織健は凄い!!! これは是非とも彼のリサイタルに出かけなければなるまいと思ったほどだ。今年の私の王子様は、ウラジミール・マラホフと錦織健の二人だね。 全体的に大袈裟な作りで、やり過ぎの感があった舞台だったが、2時間半を退屈しないで観せたのは、演出と言うより、個々の役者、ソリストたちの実力の結果だと言えるのではないかと思う。面白かったと言えるだろう。しかしながら、かぐや姫は、あくまでも月に帰らなければならない存在であって欲しいもんだと思う。月姫との生活は、大伴大納言にとって極めて幸せなものに違いないが、彼は時折月姫の中に月へと去ったかぐや姫の面影を探し、少しだけブルーになるかもしれない。幕。(2002,4,27)
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