江戸では、初春に曽我狂言と呼ばれる曽我兄弟の物語を上演する習慣があった。曽我兄弟の芝居を上演することで、悪霊払いをし、新年の平安を祈ったのだという。曽我狂言とは言っても、仇討ちの場面までは上演せず、兄弟が父親の仇工藤祐経と初めて対面する場面を、多くのヴァリエーションを以って上演した。仇討ちの場面は史実と同じく5月に上演されていたという。現在では、1885(明治18)年河竹黙阿弥が改訂した台本が定番として用いられている。ところで、曽我狂言を演じることが、何故悪霊払いになるのだろうか。 そもそも、同族間の所領地争いが原因だった。伊豆東岸を本拠としていた豪族工藤祐隆の子、祐継と祐家が相続した所領地の分配に関する不満が、次世代の工藤祐経と伊東祐親に受け継がれた。1176年、祐親が頼朝を招いて狩りを催した時、工藤祐経は、祐親の子河津祐康を殺害した。祐康の未亡人が遺児一万と箱王を連れて曽我祐信と再婚したが、この遺児たちが後の曽我十郎と五郎というわけである。 1193年までの17年間を、曽我兄弟は潜伏して過ごすが、この年の5月28日富士の狩場で催された狩りの折り、工藤祐経を討ち果たした。兄十郎はその場で殺害され、弟五郎は一旦は仇討ちとして許されたものの、祐経の子伊東祐時の嘆願により殺害されたという。この時、十郎は21歳、五郎は19歳だった。当時の庶民は、この無惨ともいえる仇討ち事件の顛末を上演することを、同じように非業の死を遂げた菅原道真や平将門らの怨霊悪霊に対する鎮魂儀礼にしようと考えたらしい。 悪霊、怨霊に対する恐れを迷信に過ぎないというのは簡単である。しかしながら、当時の人々は、この憎悪の連鎖を断ち切ろうと考えたのではないかと思う。仮に曽我兄弟に子供があったなら、彼らは同じように仇討ちを繰り返したに違いないのである。仇討ち、自決、玉砕は日本の悪しき文化であると思う。この間違いを、人々は潜在的に知っていたのではないだろうか。 昨今の国際情勢を考える時、憎悪の連鎖の奥深さに打ちのめされる思いを払拭できない。イスラエルとパレスティナの人々が、対話によって共に憎悪の連鎖を断ち切り、互いの幸福を祈りあえるような時が、一刻も早く訪れることを願ってやまない。 これまでも『寿曽我対面』は観劇したことがあったが、どうも前後の物語が理解できず、様式美を楽しめば良いのだと分かっていても、面白いとは思えなかった。何しろ、『対面』以外の場面は、現在では上演されることがないのだ。実際、源家の宝刀友切丸紛失の経緯が語られることは全くなかったし、兄弟の母親の再婚相手曽我祐信が紛失したということが分かっただけで、どういう状況で紛失したのかについては、私は未だ知らないでいる。江戸時代の大衆は先刻ご承知のことだったかもしれないが、現代の歌舞伎ファンにとっては、謎ときのないまま突然犯人が逮捕された推理小説を読んでいるようなもので、欲求不満が高じるばかりなのである。 今回は、十郎を菊之助が演じ、五郎を新之助が演じる予定だったが、新之助は急性喉頭炎と両側声帯結節のため5月の歌舞伎座は休演することになった。4月27日に武道館で催された芝居『眠り王』に出演していた時には、問題なかったように思うが、急性というだけに、その後急に具合が悪くなったのだろう。しかしながら、五郎は新之助の父親団十郎が代役を演じたので、私としては損した気分になったら良いのか、得した気分になったら良いのか未だ決めかねている。 五郎は芝居では22、3歳、実年齢は19歳だったというが、団十郎が見事なまでに五郎だったので、年齢的な不都合は全くなかった。ちゃんと菊之助の弟に見えた辺り、流石というほかない。しかしながら、敵役の工藤よりも余ほど偉そうだと感じたのは、私だけではあるまい。もちろん、新之助の全快を心から祈らずにはいられないが、若さゆえに苛つくことのないよう、焦らず大事にして欲しいものだと思っている。入院のエキスパートからの忠告である。 さて、今月は四世松緑の襲名披露公演でもあったが、その襲名披露狂言の『義経千本桜・川連法眼館の場』は、特筆すべきことが観られなかったので、『寿曽我対面』を劇評の対象に選んだ。ただ一点、荒法師に肩車しようとした源九郎狐が、滑って転んだことは、些かみっともない事態だったことを述べておこう。頑張れ松緑!!! 君の未来を明るくできるのは、君自身だけだ!!! 幕。(2002,5,4)
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