レイテ戦記 |
大岡昇平著『レイテ戦記』を読んだ。興味深いことに、これを読んでいる最中、私の祖父がレイテ島に配備された連隊に配属されていたことが分かった。同じ連隊ではあっても、部隊によっては配備された戦場が違っており、実際に祖父がレイテ島で玉砕を体験したのかどうかは定かではない。祖父は、自身の戦争体験について語ることのないまま、15年ほど前に死亡しているため、本人に確かめることもできない。こうした事情があったことも手伝って、『レイテ戦記』は、私に大きなインパクトを与えた。良い機会なので、レイテ島玉砕の周辺について書きたいと思う。 第八師団歩兵第五連隊は、レイテ島に最後に投入された部隊だった。1944年12月11日にレイテ島に上陸しているが、その二週間後の26日には、マッカーサーはレイテ島での組織的な戦闘の集結を宣言している。この時点で約10,000人の日本兵が、レイテ島に生存していたと考えられている。この後、合衆国軍は徹底的な掃討作戦に入り、最終的に生還した日本兵は2,500人であった。第八師団歩兵第五連隊の生還者は、僅か130人を数えるのみである。 日本軍の最初の玉砕地であったガダルカナル島では、31,000人が投入され、6,000人が戦闘死し、最終的に撤退したのは10,000人だった。この差、15,000人は、全て病死、或は餓死だった。以前ノモンハン事件の戦死者率が70%を超えたことを書いた時、玉砕と言われているガダルカナル島の戦死者率は34%程度であったと紹介した。しかしながら、この数字は、組織的戦闘が終結した時点での戦闘死者率であって、ガダルカナル島における最終的な戦死者率は60%を超えているのである。玉砕は、確かに玉砕であったわけだ。レイテ島では、その数字は更に上昇する。レイテ島に投入されたのは84,000人、最終的な戦死者は79,000人に昇り、その戦死者率は94%を超えている。正に玉砕である。 当時、多くの日本兵たちは、ジュネーブ条約の何たるかを全く知らされていなかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉に代表されるように、兵士たちは生還する希望を持つことが出来なかった。ガダルカナル島で、白旗を掲げて降伏の意志表示をした日本兵が、拘束しようとした米兵に対して突如銃撃を開始し、自身たちも殺害されるという戦闘が行われた。如何に戦争という異常事態の最中ではあれ、やって良いことと悪いことがある。この白旗突撃は、恥ずべき行為であることを、日本兵は知らねばならなかった。この一件以来、米兵は日本兵の白旗を信用しなくなり、レイテ島においては白旗を以って降伏した日本兵が多数殺害されるという事態が発生することになった。愚かな、正に、愚かな状況だったと思う。 捕虜となることについての教育が為されなかったために、不本意にではあれ捕虜とならざるを得なかった傷病兵たちは、自身の氏名を名乗るだけで良かったにも関わらず、生還する希望を持てなかったばかりに、自身の知りえた情報の全てを米軍に提供してしまい、これが大いに日本の敗戦を早める結果をもたらすことになった。ここで特筆すべきことは、傷病兵たちが捕虜になった時、既に昏睡した状態にあった場合と、そうでなかった場合があったということである。軍医、或は衛生兵が、戦闘不能となった傷病兵を伴って降伏することがあった。彼らは、日本兵の中にあって、些かなりとも教育のある知識階級を構成していた。その教育が、生きることを彼らに促したのである。 『レイテ戦記』を読んで、私が最も興味を覚えたのは、太平洋戦争に突入した時点で、日本人が戦争に対する常識的な不安を感じていたという記述だった。従来、当時の日本人は、教育勅語によって天皇中心の絶対的な教育を受け、これに疑問を持つことさえなかったと考えがちである。しかしながら、こうした表面的な世情とは別に、多くの日本人は、確かに常識的な判断能力を保持していたと知って、何故戦争に爆走したのかと再考せざるを得ないのである。 また、私が最もインパクトを感じたのは、玉砕地における飢餓状態で発生する人肉食についての、大岡昇平の考察であった。大岡は、圧倒的な食料不足の中では、人肉食は起こり得る状況であるとしている。しかしながら、その最低の道徳律を破戒する基準は、不足の度合いではなく、道徳律に対する認識の個人差にあるというのである。同じ飢餓状態にあっても、人肉食をする者としない者がある。限定された空間で飢餓状態に陥った場合、生きるための人肉食は、善悪の判断能力を失っていたとして、法的処罰の対象にはならないという考え方がある。しかしながら、私は、人肉食をした者が善悪の判断能力を失っていたとは、到底思えない。私が時折引用するViktor E. Frankl著『夜と霧』の一文を、今回も引用したい。即ち、「最もよき人々は帰ってこなかった」のである。 1941年スモレンスク西方のカチン近郊の森で、ポーランド人将校4,143人が集団虐殺されるという事件が起こった。スモレンスクは、モスクワとミンスクの間辺りの都市で、カチンは農村。一般に「カチンの森虐殺事件」として知られているこの事件は、ナチスの犯行であると考えられていたが、発掘調査などから、ソ連軍による虐殺であることが判明した。この一件は、関連した論文を読めば、歴史学者らにとっては明白な事実として受け止められていることが分かるが、ソ連邦政府は長い間これを認めていなかった。1990年になって、ゴルバチョフが初めてスターリンが命じたソ連軍の犯行であることを認め、公式に謝罪した。 同じ1941年、ポーランドのイエドバブネ村で、ユダヤ系村民400人が、無差別に集団虐殺されるという事件が起こった。これもまた、ナチスによる犯行と考えられていたが、発掘調査などから、同じ村民によって虐殺されたことが判明した。この虐殺には、一発の銃弾も使用されていない。虐殺は、ユダヤ系村民を村外れにあった納屋に閉じ込め、生きながら納屋ごと焼き殺すという手法で行われたのである。この事実を、村民は50年間沈黙を以って秘匿してきたため、昨年、政府の調査機関による調査が本格的に行われるまで知られることがなかった。第二次世界大戦において、ポーランドが初めて加害者であったことを認めた事件であった。現在では、おなじような事件が、ポーランドの各地に存在したと考えられている。 この二つの事件は、その発生した状況が全く違っている。カチンの森事件は、最高司令官であったスターリンが当該部隊にこれを命じたのであり、命令自体が戦争犯罪であったことは明白だったにしても、ソ連軍兵士には選択の余地はなかったと言って良い。しかも、銃殺。しかしながら、イエドバブエ村の場合は、村民が隣人をユダヤ人であるという理由で、焼き殺したのである。何故か。 調査に依って明らかになったのは、ソ連軍は占領地域の居住者の中から密告者を募り、その情報によって、多くの協力的でない人々をシベリア送りにしていた。これは、イエドバブネ村も例外ではなかったが、当時、その密告者の約一割がユダヤ人であったことが知れた。九割はポーランド人だったわけだが、この統計的事実は無視され、全てのユダヤ系村民が、ポーランド人を含めた密告者の連帯責任を負うことになったのである。調査機関は、自身が密告されるかもしれないという恐怖が、これほどまでの憎悪を生んだと考えている。そして、その憎悪が向かう方向が間違っていることを示す人物が、当時のイエドバブネ村には存在しなかった。 前述したように、ソ連軍は占領地域に住む多くの人々をシベリア送りにした。教師、弁護士、医師、その他、地域で知識階級を構成する人々が、真っ先にシベリアに送られたのである。結果的に、村に残っていたのは、年寄りと女と子供、元気だけど元気なだけな極普通の男たちだった。元気で普通な男たちが集まって、不自由な生活について愚痴る時、次第に不満は怒りに、怒りは憎悪にその形を変え、最も弱い存在へと向かう。奴らを殺せ!!! 誰一人として、この野蛮な犯罪を止める者はいなかった。そして、彼らは50年間に渡って沈黙を守ったのである。 戦争自体が野蛮な行為であることに異存はないが、戦争は個人が野蛮になって良い言い訳にはならない。大本営は、組織的に野蛮になることを兵士に強いた。玉砕は、英語では「a honorable death名誉ある死」と訳される。しかしながら、私はこれを、ヨーロッパで起こった二つの事件と同様、「genocide虐殺」であると認識している。多くの人々に、通常の道徳観を失わしめる戦争という悪行に戦慄する。『レイテ戦記』は、教育とは如何に大事なものであるかを、私に改めて認識させた一冊であった。何故、勉強しなければならないのかと問う青少年諸君への回答の一つが、人を殺さないためであるということを知って欲しい。
○『レイテ戦記』大岡昇平/中央公論新社/\800\857\876
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