熊谷陣屋

『一谷嫩軍記』より
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いちのたにふたばぐんき
『一谷嫩軍記』は、並木宗輔ら六人の合作による全五段の時代物浄瑠璃で1751(宝暦元)年に初演された。歌舞伎での初演は翌1752年。『熊谷陣屋』はこの三段目に当る。『平家物語』で有名な敦盛の項を素材にした物語で、義太夫狂言の代表作として上演を重ねてきた。

1156年保元の乱以後、武家の勢力は目覚ましく増大し、中でも源義朝、平清盛の勢力は強大となった。1158年平清盛は後白河上皇の近臣である藤原通憲と結び、源義朝は通憲の対抗勢力である藤原信頼と結んだ。翌1159年平清盛の熊野参詣の留守を狙って、源義朝が挙兵した。平治の乱の勃発である。

源義朝・藤原信頼軍は、藤原通憲を殺害、後白河上皇と二条天皇を皇居に幽閉した。急遽引き返した平清盛は、後白河上皇を仁和寺に、二条天皇を六波羅にそれぞれ移動した後、皇居を占拠していた源義朝・藤原信頼軍を攻撃、これを撃破した。藤原信頼は捕縛された後殺害、源義朝は東国へ逃亡を図ったが、途中尾張で暗殺された。源義朝の子頼朝も一旦は逃れたが捕縛され、伊豆に流された。

この平治の乱の後、平家の勢力は急速に強大化し、平清盛を中心とした全盛期を迎える。この平家打倒のために頼朝が挙兵したのは、1180年8月のことだった。挙兵直後、頼朝は石橋山の戦いで一旦は敗れるが、頼朝の挙兵を知った関東の武士が集結し、鎌倉を根拠に勢力を固めた。翌9月には、義仲が挙兵した。清盛は孫の維盛を総大将とした頼朝追討軍を関東に送り、同年10月富士川で両軍は対陣した。この時、水鳥の飛び立つ音を源氏の夜襲と勘違いした平家の軍勢は遁走する。所謂富士川の戦いである。頼朝は弟範頼と、この戦いから源氏の軍勢に加わった義経に平家軍追討を命じ、自身は鎌倉に退いた。

翌1181年清盛死亡。後継した宗盛は、1183年義仲追討を維盛に命じるが、倶利伽羅峠の戦いで破れ、義仲は敗走する平家の軍勢を追って入京する。義仲軍は京都で略奪三昧、義仲自身は皇位継承問題に干渉するなどして、後白河上皇の反感を買い、上皇は頼朝の上京を促すに至る。これに応えて、頼朝は範頼と義経を派遣、結果、1184年1月義仲は討死にすることになった。

義仲によって京都を追われていた平家一門は、京都奪還の機会を窺っていたが、義仲が討たれた翌月の2月には、一谷の合戦でこてんぱんにされてしまう。一谷は、現在の兵庫県神戸市須磨区の瀬戸内海に面した地域で、敗れた平家の軍勢は讃岐の屋島、現在の香川県高松市の瀬戸内海に出っ張った半島地域へと逃れた。敦盛は屋島へと向かう船に乗ろうとして波打ち際に馬を走らせたが、この時、熊谷次郎直実に「敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ」と呼び止められる。『熊谷陣屋』の前段、二段目がこれに当る。

『平家物語』によれば、呼び止められた敦盛は、取って返し、直実と取っ組み、双方落馬した。直実が首を取ろうと兜を押し退けたところ、息子小次郎と似たり寄ったりの年頃の少年であった。「薄化粧して、容顔誠に美麗なり」とある。直実は不憫に思い名を尋ねるが、敦盛はこれに答えず、直実の名を問い返した。武蔵国の住人、熊谷次郎直実であると自己紹介すると、敦盛は首を取って人に問えという。つまり、自身は平家一門の名の知れた武将であるが、これを知らない田舎侍如きに名乗るのは片腹痛いと言っているわけだ。この気概に、直実は感激する。

「この人一人討ち奉ったりとも、負くべき戦に勝つべき様なし。又助け奉ったりとも、勝軍に負くる事もよもあらじ」と直実は思う。この朝、一谷で小次郎が軽傷をおっただけで、心苦しく思ったのに、この少年が討死にしたと知ったら、父親は嘆き悲しむことだろうと、助けることを決意した。ところが、背後には梶原平三景時率いる50騎余りの軍勢が迫っていた。これでは、助けることは叶わない。自身が手にかけ、後の供養も引受けよう。直実の涙ながらの情に、敦盛はただ「疾う疾う首を取れ」と言うだけだった。かくして、敦盛絶命。

「哀れ弓矢取る身程口惜しかりける事はなし」と、直実は武士であることを悔いる。首を包もうと、鎧を脱がせて見ると、笛が入った錦の袋が腰に差してあった。「当時御方に東国の勢、何萬騎かあるらめども、軍の陣に笛持つ人はよもあらじ」この人くらいのものだろうと、後日これを義経に見せると、その場にいた人々は涙を流したという。

『熊谷陣屋』では、直実が敦盛を認識できなければ、これを助けることができないため、知っていることになっているが、『平家物語』でも、恐らく事実も、敦盛が名乗ることはなかった。この点については、作劇上の方便として、観客は納得していたらしい。沖田総司が女なはずないじゃないか。しかしながら、芝居であれば、どのような設定をしても良いということではない。歌舞伎の手法は、多分に観客の融通性に負うところが多いが、観客の想像力を過剰に期待しているわけではない。この辺りが、難しいところだと思う。

敦盛の持っていた笛は、笛の名手だった彼の祖父忠盛が鳥羽上皇より賜ったもので、これを経盛が相伝し、やはり笛の名手だった敦盛が所持するところとなった。この笛に纏わる伝承が、敦盛が後白河上皇の実子であるという芝居の設定を、劇作家たちに創造させたのではないだろうか。同じように、観客もまた、ありそうな話だと思うことが可能だった。観客の想像力の限界を超える発想ではなかったというわけだ。

また、義経がこの一件を直実に示唆したというのは、非常に興味深い。義経は戦闘指揮官として有能ではあったが、朝廷を中心とする旧体制の崩壊を、正しく認識できなかったと考えられている。つまり、頼朝が武家社会を建設すべく奮闘していた時期に、義経は既に権威を失墜していた後白河上皇のご機嫌を伺っていたわけだ。『熊谷陣屋』の状景は、フィクションでありながら、こうした歴史認識とも呼応している。敦盛が後白河上皇の実子であるなら、義経がこれを助けたいと考えるのは、ありそうなことだと思わせるわけだ。巧い。

前述のように、『平家物語』の中で、敦盛を殺害せざるを得なかった直実は、自身が武士であることを悔いる。『熊谷陣屋』では、その思いは、自身の息子小次郎への愛惜として語られる。武士でなければ、我が子を殺さずに済んだのである。この一件で、諸行無常を知った直実は出家するが、これをふざけるなと激怒すべき人物が一人存在する。直実の妻、相模である。

首実検に供された首が、敦盛ではなく小次郎の首であったことを知った時、最も驚いたのは、相模だったであろう。我が子小次郎を夫に殺害され、その夫は俗世を、つまり妻である自身を捨てた。相模は、これ以後どうすれば良いのだろうか。呆然とするしかない。芝居の終わりに、僧形の直実は陣太鼓に未練を見せるが、相模は放置されたまま、幕が引かれる。直実は、「16年は夢であった」と悔悟する。相模の16年もまた、完全に否定されたのである。いつものことながら、歌舞伎に登場する女たちの運命は過酷である。

義経が衣川で自害する1189年まで、後5年を残すばかりであった冬。

本当に、夢だったね…。幕。


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