いざとなったら珠をだせ!!! 滝沢馬琴作の大長編大衆娯楽大河読本『南総里見八犬伝』は、1834(天保5)年に初めて劇化されてから、数多くのヴァリエーションを以って上演され続けてきた。しかしながら、私にとって『八犬伝』と言えば、辻村ジュサブロー先生作の人形によるNHKの人形劇『新八犬伝』しかない。「いざとなったら珠を出せ、力溢れる不思議な珠をおおお」とか何とか、試験前になると必ず一度は歌ったもんだぜ。1973〜1975年の間、放送されていたが、日本人ならバルタン星人を知っていてあたりまえというのと同じくらい、私たちの世代に『新八犬伝』を知らない人はいないと断言できるほどの共通体験のキーワードだった。 八犬士の一人犬塚信乃は、織田信長を知る以前の私の王子様だった。日本人では最初の恋人だった。子供なりに、ちゃんと惚れたもんだから、信乃と浜路の関係を、正しく恋人同士であると認識することができた。それまでは、一緒に並んで座っている男の人と女の人は恋人同士、という程度にしか考えていなかった。彼ら八犬士が、様々な困難を乗り越えて、里見家の再興を成し遂げるというのが、『新八犬伝』の物語だった。しかしながら、このNHKの人形劇において、最も重要な登場人物だったのは、八人の犬士たちだったわけではない。誰か。 物語の冒頭から登場し、毎回一度は必ず、あの名台詞、「我こそは、玉梓がおんりょおおおおお〜ドンドンドンドン…」と、恨みたっぷりに、子供たちを脅かす。あの玉梓の怨霊である。彼女無しには、八犬士たちの困難は、自転車のパンク程度の困難にしか思えず、悲劇はランチを食べ損なった程度に悲劇的で、運命は寝起きの悪さに象徴される低気圧の接近のようなものだったに違いない。あの存在感は絶対だった。 『新八犬伝』の最終回では、八つの珠を連ねた数珠の法力と、ヽ大法師の切腹で、流石の玉梓も成仏し、これを見届けた八犬士たちが犬の姿になって、それぞれの珠にフェードイン、編隊飛行も美しく大空の彼方に消えて行く。あんまり良く覚えていないのだが、そういうラストだったらしい。あの怨霊玉梓も成仏してしまったんだなあ。玉梓の怨霊自体が、具体的に何かの悪意を具現化し得るというのではなく、ただその存在そのものが、犬士たちとTVの前の子供たちに、居心地の悪い思いを感じさせた。悪い人というのは、一体、悪い人なんだろうか…。玉梓の怨霊を見るたび、そんなことを考えていたような気がする。 何のために登場するのか良く分からないのだが、いつもさもしい網乾左母二郎という名の浪人を、奇妙なことに良く覚えている。淋しい男、哀しい男というものが存在するのを、彼が教えてくれたのかもしれない。他にも悪役が何人か登場したが、どの悪役も、妙に説得力があったような気がする。因みに、ナレーターは故坂本九さんだった。 こうした記憶が鮮明に蘇ってしまったことが原因かもしれないが、猿之助の『八犬伝』は、私の『八犬伝』とは、大いに違ったものだった。実際、猿之助劇団の歌舞伎『八犬伝』は、それ自体、評価できる出来だったのではないかと思う。確かに、緑色に輝く不思議な珠は美しかったし、隣の座席に座っていた兄ちゃんは、猿之助の宙乗りに拍手喝采だった。しかしながら、私は猿之助が脚色した部分を、面白いとは思わなかった。敢えて言うなら、原作者滝沢馬琴の『八犬伝』とさえ、違ったニュアンスがあったような気がするのである。 その原作者滝沢馬琴とは、どういった人物だったのだろうか。滝沢馬琴の方が一般的な気がするが、曲亭馬琴(1767〜1848)の方が通りが良いらしい。本名は滝沢興邦で、後に解と改名した。1767年旗本松平信成の用人滝川運兵衛興善の五男として、江戸松平屋敷内長屋で生まれた。9歳の時父が死亡し、長兄が家督を継いだものの、その翌年には10歳の馬琴が滝沢の当主となった。主家である松平家の嫡孫八十五郎のお友達として、お勤めすることになったそうだ。これ以後、馬琴は家族と離れ、主家で寝起きするようになる。 10歳の少年にとっては、母と離れて暮らすこと自体が、かなりキツイ少年時代を連想させるが、馬琴の場合は他にもキツイと思わせる要因があった。馬琴が仕えた松平八十五郎は、かなり俺様なお子様だったらしい。14歳の時、馬琴は松平家を出奔してしまうのである。またしても、14歳…。当時の14歳と言えば、そろそろ元服でもしようかという年齢だったかと思うが、森蘭丸でさえ死亡した時には17歳になっていたことを考えると、やはり未だ子供だよなあと思わずにいられない。 14歳の馬琴は、出奔する時に、「木がらしに思ひたちけり神の旅」という一句を、書置き代わりに障子に書きつけておいたいたらしい。余程、辛かったんだろうと思う。幼い頃から読書を好み、独学ではあったが和書、漢書を良く読み、浄瑠璃本や劇作書なども好んで読んだという。一時は医師として独立しようとしたこともあったらしいが、武士階級に属しながら、自ら生計を立てたいと考えていたことが窺える。事実、その後、馬琴は、日本で最初の職業作家となるのである。 勉強しながらも、あらゆる意味で浪人だった馬琴は、24歳の時に戯作者で浮世絵師でもあった山東京伝の門人となり、その後職業作家として活躍することになるわけだ。伝奇、幻想、因果応報、勧善懲悪の要素を合わせ持つ、馬琴の波乱万丈の物語は、当時の江戸庶民に大いに受け入れられ、多くの作品を量産したが、それらが常にヒットしたというのであるから、驚きである。中でも、人気絵師葛飾北斎との合作とも言える作品を次々に上梓するに至り、人気作家としての地位を不動のものとした。凄い…。 馬琴は27歳の時に30歳の商家の未亡人と結婚したが、馬琴の文名を慕って訪れるファンは、身分を問わず避け、執筆三昧の生活だったらしい。そうした中、28年の歳月を費やして書き上げたのが、この『南総里見八犬伝』である。全9輯98巻106冊にのぼるペリー・ローダン並みの大長編小説を、馬琴は彼独特の知的探究心を以って書いた。和漢の書、博物、歴史に詳しい馬琴は、自身の作品の考証に頗る熱心だったという。その上で、地名、人名、その他の固有名詞の読み方を微妙に変え、史実ではなく、あくまでもフィクションであることに拘った。歌舞伎の劇作者たちが、当局を欺くべく、あからさまな変更を強いられたのとは対照的であると言えるだろう。 『南総里見八犬伝』を執筆途中、馬琴は両眼を失明する。しかしながら、馬琴は、38歳の若さで死亡した長男の未亡人お路に、口述筆記をさせて、これを完成させたのである。この嫁さん、実は文盲だった。馬琴は、彼女に字を教えながら、口述筆記をさせたというのであるから、その書きたいという意志の強靭さは、特筆すべきものがあるだろう。 私は、この『八犬伝』という作品を書くことを、馬琴は如何にも楽しんだのではないかと思っていた。面白いからだ。馬琴は自身が展開する物語に遊び、これを亡き長男の嫁さんに語ることを楽しみ、嫁さんは舅の口述する奇想天外な物語を筆記しながら、次は一体どうなるのかと、心を躍らせていたのではないだろうかと思ったのである。しかしながら、私は間違っていた。馬琴は、文学に暗い未亡人に苛立ちながら、叱り、怒り、罵倒しながら、口述筆記を続けたのである。嗚呼、気の毒…。 天才であった、秀逸な作家であった、稀有な文学者であったというのであれば、馬琴は必ずや頑固な爺だったに違いない。『八犬伝』は、若くして夫を失ったお路という未亡人なしには、完成できなかった。頑固な流行作家に、作品完成まで付き合ったお路の尽力には、感謝の申し上げようもございません。 流行作家として大成した文豪馬琴は、近代の文学者や歴史家には、余り評価されなった。ベストセラー作家は、その時代を象徴する存在ではあるが、確かに長く読み継がれると思われる作品は、必ずしも量産されているとは言い難い。そうした中、『南総里見八犬伝』は、江戸期から今も尚読み継がれている。こうした作品群を、正当に評価する見識を、今後の識者には期待したいものだと思う。馬琴の82年の生涯は既に終ったが、その作品は、これからも更に永く生き続けるだろう。 猿之助の『八犬伝』があんまり楽しくなかったのは、多分、猿之助が辻村ジュサブロー先生の人形劇を見ていなかったからなのではないかと思う。知ってはいたかもしれないが、これを踏まえてとは、思わなかったのだろう。しかしながら、今となっては、知っている世代の方が、少数派なのかもしれない。幕。(2002,7,6)
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