1885(明治18)年東京新富座で初演された、河竹黙阿弥作の舞踊劇。能『舟弁慶』を素材としており、能舞台を模した様式で演じられるこうした芝居を松羽目物という。新歌舞伎十八番の一つで、今回は、四世松緑襲名披露狂言として上演されている。明治以降、第二次世界大戦終了前までに、西欧文化の影響を受けて制作された作品群を新歌舞伎という。これ以後制作された作品は、新作歌舞伎と呼んで区別している。市川家の芸である古い歌舞伎十八番に対して、七世及び九世団十郎が新しく選んだものを、新歌舞伎十八番という。『舟弁慶』は、その一つ。 平清盛の子、知盛(1152-1185)は、優れた武将として後世に知られている。1182年源頼政を宇治で破り、翌年源行家を尾張、美濃で連破してその名を知らしめた。しかしながら、1183年粟津で源義仲に敗れ、翌年には一ノ谷の戦いで勇戦したものの、1185年壇の浦の戦いでは、奮戦の末、入水して果てた。 能の『舟弁慶』では、怨霊となった知盛が、海路九州へと向う義経主従を瀬戸内海に沈めようと波を荒げるが、義経主従はこれを退ける。怨霊をも調伏する弁慶の祈りに、さしもの知盛も退散するわけだ。瀬戸内海の蜃気楼。怨霊との戦いに臨んで、義経は極めて冷静沈着だった。静御前と別れる時には、気持ちが揺らぎ、未練たらたらだったわけだが、このような場面では、やはり武将としての凛々しさが際立つ。玉三郎の義経は、凛々しさ、端整さ、しなやかさ、無駄の無さが印象に残った。それはそれで、美しかったと思う。 役者によってキャラクターの性格の捉え方が違って良いのはもちろんだが、義経の武将としての冷酷さがもっと表現されても良かったのではないだろうかと思う。一般的な歴史認識や、観客のお馴染み加減を加味すれば、やはり義経の美しい哀れを演じる必要があるのかもしれない。しかしながら、義経が極めて優秀な戦闘指揮官であったことを忘れてはならない。玉三郎演じる義経の酷薄なまでの冷静さを見たかったものだと思う。 私は未だ観たことがないのだが、歌舞伎の『義経千本桜』では、壇の浦で入水したことになっている知盛は、実は生きており、源氏への復讐を期して時を待っているという設定になっている。知盛は渡海屋銀平と名を変え、密かに義経の命を狙う。時節到来し、知盛は亡霊の装いで大物浦から船出する義経一行を襲撃するが、これに敗れ、碇網を身体に巻き付け、碇を海に投げ込んで海底に沈む。壇の浦の再現だと考えると、面白い趣向であると言えよう。 能も歌舞伎も、『舟弁慶』の見せ場は、一人の役者による、前半の静御前と後半の知盛の怨霊の演じ分けにある。バレエ『白鳥の湖』におけるオデットとオディールの静と動の演じ分けと同様に、最大の見所となっているわけだ。四世松緑襲名披露狂言である。新松緑がこの演じ分けに挑んだが、静御前が美しくない。知盛も、知盛ではなかった。あれはただの亡霊ではなく怨霊なのであり、ただの怨霊なのではなく知盛の怨霊なのである。些か、松緑には荷が重過ぎた感が見えたのは、残念至極であった。今後の精進に期待したい。 新之助、菊之助と共に平成の三之助と呼ばれた四世松緑ではあるが、彼は辰之助時代から、新之助と菊之助の美に引き立て役に過ぎなかった感がある。今回の知盛を新之助が演じていたなら、静御前を菊之助が演じていたならと思わずにはいられなかった。さぞかし美しい静御前と知盛だったに違いないと思う。 『平家物語』によれば、知盛は戦場にあっては果敢な武将として描かれているが、壇の浦の戦いにおいては、極めて鋭敏な洞察力を以って、平家一門の滅亡の有様を観察している。結果的に入水自殺することになるのだが、それを見越して尚、平家の武将であろうとする知盛は、滅びの美学を体現していると言って良い。 その入水直前、混乱を極める御所船に乗り移った知盛は、殺された源氏の兵士たちの死体を海中に投じ、血糊を拭いたり掃いたりして、船内を懸命に掃除する。平家の旗艦が汚れていては、みっともないと思ったからだ。その船内には、女房たちが乗船していたが、呑気なことに戦況を尋ねる彼女らに、知盛は以下のように答えている。 「只今珍しき東男をこそ、御覧ぜられ候はずらめ」 東国の野蛮な源氏の兵士たちが、ほどなくこの船を占拠することになるだろう。貴女たちも、珍しい源氏の兵士を見ることができますよ。この時代、女性が男性に顔を見られるということは、ほとんどレイプされたということと同義だった。つまり、知盛は、事ここに至って尚、分かりきった戦況を尋ねる役立たずの女たちに、何が待っているのかを適確に知らしめたというわけだ。瀬戸内海を遊覧船に乗って観光しているわけではなく、一族の命運をかけた内乱の真っ最中なのである。その上、既に此方の敗北は決していた。腹を立てても当然と言わざるを得ない。だいたい、彼女らは何をしに来たのか。 確かに時代は女性にとって過酷だった。栄耀栄華を極めた生活から一転して、今、正に自死か、殺されるか、レイプかの選択を迫られているのである。何故そういうことになったのかを理解して、乗船していた女性は数えるほどだったに違いない。こうして、大半の女性たちは入水し、40人ほどが生捕られ、都に連行されて行った。生き残った女性たちは、死ぬまで自身の不孝を嘆いたことだろう。 船内の掃除を終えた知盛は、乳母子の伊賀平内左衛門家長に、「日頃の契約をば違えまじきか」と問う。二人は予てから一緒に死のうと約束しあっていたのだな。「見るべき程の事は見つ」と、それぞれ二人分の鎧を着て、手に手を取って海に飛び込み、瀬戸内海の海底に沈んだ。33歳。栄耀栄華を極め、その没落の有様も余すところなく見た一生だった。この人生の有り様が逆であったなら、つまり、零落した平家が栄耀栄華を極めるまでに勢力を伸ばすという状況があったなら、知盛の優れた洞察力と知性と教養は、平家の栄耀栄華の有り様を、もっと違ったものにしたのではないかと思われてならない。知盛の人物を惜しむ。(2002,6,8)
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