line-long.gif

English 先頭に戻る

見失われた武士道  討入り情報戦始末記

私観・仮名手本忠臣蔵

1701年3月14日に江戸城で勃発した刃傷事件については、ここで解説する必要はないと思う。事件そのものに対する調査が行われなかったため、原因は未だ不明のままだが、傷害現行犯の浅野内匠頭長矩が切腹したことで、翌年12月14日に赤穂藩の浪士たちが吉良邸に討入ることになったわけだ。この事件は、当時の江戸社会に、武家、庶民という階級を問わず大きな衝撃を与えた。

『仮名手本忠臣蔵』は、全十一段に及ぶ大長編歴史物で、この事件を基にした芝居を代表する作品として上演を重ねてきた。タイトルの『忠臣蔵』という言葉が、現在では一連の事件の代名詞として使用されていることを考えれば、この芝居の人気の度合いが知れようというものだ。世間が不況の折にも、『忠臣蔵』を上演すれば当るという伝説めいた評判さえある。この出口の見えない平成不況の最中、『忠臣蔵』の上演は、果たして些かなりとも経済効果を上げることができたかどうかは疑問ではあるが、観客が楽しんでいたことは確かである。

今回、昼の部、夜の部と通しで上演されたが、小泉純一郎氏は昼の部を、私は同じ日の夜の部を観劇した。どうも、この人とは観劇日が重なる傾向がある。多分、小泉さんも吉右衛門さんのファンなのかもしれないと思う。ともあれ、夜の部について感想を書きたいと思う。

私が最も期待したのは、『五段目・山崎街道二つ玉の場』で、早野勘平が定九郎を誤殺する場面である。定九郎は赤穂藩の家老斧九太夫の息子だったが、強欲爺として知られた父親にさえ勘当される程の悪党だった。その悪党定九郎が、与市兵衛を殺害し五十両の金を奪う。定九郎には、「五十両」というたった一つの台詞しかない。役者の資質そのものが問われる難しい役所と言えよう。定九郎は、黒の着流しをはしょって白い膝を見せている。そこに銃声。撃たれた定九郎の口から血が滴り、その白い膝に落ちる。白い膝に、真紅の血。猟奇、耽美、艶美、他にどんな言葉があるだろうか…。神をも恐れぬ背徳の美学が、歌舞伎の神髄なのだという証左が、この場面に凝縮されていると言っても過言ではないだろう。

以前、私は橋之助の定九郎を観たことがある。これは絶品だった。これで私は、橋之助に惚れたわね。悪党には、悪党の気品というものがなくては、舞台に存在する意味はない。橋之助の定九郎には、これがあった。しかしながら今回定九郎を演じたのは、信二郎だった。残念ながら、信二郎の定九郎は、ただのチンピラだった。斧定九郎は、どうしようもないチンピラだったのだから、信二郎の演じた定九郎は、本来の定九郎という人物を表現していたと言えるかもしれない。しかしながら、そうであるなら、定九郎が黒の着流しをはしょっている必然はないのである。白い膝に、口から真紅の血が滴り落ちるのであれば、その人物は絶対に美しくなければならないのである。その美が、信二郎には足りなかった。残念至極である。

これに続く、『六段目・与市兵衛内勘平切腹の場』には、私は作劇上の思想自体に不満を持っている。勘平の晴らしたかった疑いとは、一体何だったのだろうか。勘平は与市兵衛を殺害したと思い込んでおり、それが猪を射撃した際の誤殺であったことを、死を以って訴えている。とは言え、誤殺ではあったとしても、その後五十両の金を奪取しているのであるから、窃盗の罪は免れない。

その後、勘平が殺害したのは定九郎であると判明するが、定九郎が与市兵衛を殺害したとはいえ、勘平はこれを知らなかったのであるから、勘平の定九郎殺害は義父の仇討ちとは到底言い難い。殺人に正当性など在り得ないが、仇討ちを正当な殺人であると仮定しても、意図的に定九郎を殺害したわけではないので、この場合も勘平は被害者を誤殺した上で、窃盗に及んでいるということになる。勘平には晴らすべき罪などない。在るのは、誤殺と窃盗という犯罪の事実だけだ。

今回勘平を演じたのは、勘九郎だった。勘平は、塩冶判官が刃傷事件を起こしたその時、ご法度の社内恋愛の相手おかるとの密会のため、現場に居合わせなかったという職務怠慢、更に事情を知った後おかると共に逃亡するという職場放棄を演じた、とんでもない不良サラリーマンなのである。勘九郎が演じると、どういうわけか不倫の臭いまでする。勘九郎の勘平には、妻子がいたに違いないという印象が付き纏うのである。これは私の先入観に過ぎないとしても、勘九郎の勘平には、武士らしさが感じられなかった。菊五郎の勘平を観た時には、同じく不良サラリーマンだったとは言え、やることなすこと裏目に出た哀れさが感じられたものだが、嗚呼、私は、どうして勘九郎が嫌いなんだろう?

ともあれ、早野勘平のモデルとなったのは、刃傷事件の直後、赤穂に駆けつけた急使の一人であった、萱野三平という人物であった。彼は仇討ちの時を自宅で待つが、父親に他家に仕官するよう説得されて進退極まり、結果切腹する。従って、どのような展開があったにしても、萱野三平をモデルとしている以上、早野勘平もまた切腹する運命にあったと言えよう。気の毒な男だったのだと思う。だからこそ、疑いが晴れたという『六段目』の結末には、納得がいかないんだよね。

『忠臣蔵』の主人公大星由良之助は、夜の部では『七段目祇園一力茶屋の場』で初めて登場することになる。今回は吉右衛門さんが演じているが、今一つ盛り上がりに欠けた感じが否めないのは、吉右衛門さんだったら、由良之助よりも巧くやったんじゃないかという印象を払拭できないからだと思う。これは役者として、有利なのか不利なのか判断に迷うが、実在の大石内蔵助が吉右衛門さんの演じるような人物だったら、仇討ちはもっと巧妙に成し遂げられたのではないだろうかと思えてならないのである。芝居の上では、そう簡単に展開してもらっては困るという配慮があったのだろう。由良之助はしばしば窮地に追い込まれるのだが、それを吉右衛門さんが演じているとなると、何時もならもっと巧くやるだろうにと感じさせるというわけだ。

『十一段目高家表門討入りの場』では、黒緑柿色の定式幕が開くと、浅葱幕と呼ばれている浅葱色の幕が舞台を被っており、これが一気に落とされると、完全武装した四十六人の浪士たちが勢揃いしている。この場面は、これだけなんだけど、武装集団というのは、不謹慎ながら、何とも言えない美しさが在る。緊張感が、そういう印象を与えるのではないかと思う。討入り、本懐場面はそのままなので、特に記述すべき感想もなかった。

以上のように、私は『忠臣蔵』を充分楽しんだ。もっと、観たい!!! そう思ったね。今年の12月14日は、討入り三百周年という記念日である。何か特別番組のようなものを期待しているのだが、昨年末、木村拓哉が討入ってしまったので、今年は何もないかもしれないなあ。世界中がテロに戦々恐々としている現在、討入った浪士たちは、海外ではテロリストとして認識されていることを、最後に書いておこう。

先頭に戻る

見失われた武士道

江戸時代以前、武士とは、足軽や徴兵された農民からなる未熟練戦闘集団を束ねる将校であると同時に、自らが戦闘員でもあった。後に言う職業軍人がこれに当るが、江戸期になるとその性格は大きく違ってくる。職業軍人であった彼らが、平時において官僚とならねばならない破目に陥ったのである。江戸幕府開幕から100年、官僚としての武士の在り方が、ある程度定着した時期に、浅野内匠頭の刃傷事件が勃発したのである。

一般に、武士道とは、主君に対する忠義と献身を意味すると認識されている。死を以ってこれを全うすることが、武士の本分であると考えられていたわけだ。しかしながら、事件が起こった当時、命を賭けて忠義を奉ずるような機会は、最早失われていた。従って、赤穂藩の藩士たちは、各々の武士道がどういうものなのかについて決断しなければならない事態に、突然直面したと言えよう。

藩士たちが考えた武士道とは、内匠頭個人の仇を討つ、内匠頭に代表される浅野家の仇を討つ、他を害することなく自刃する、浅野家再興を図る、武家社会の元締めである徳川幕府に恭順するという五つに大別することができる。内匠頭個人の仇を討つとことを選択した藩士たちの中にも、これを個人的な報復として考えた者と、仇討ちを敢行することによって忠義を果すと考えた者があった。前者は、江戸詰めの藩士たちで、殺害された恋人の復讐を図るのと同じ熱さで仇討ちを考えている。しかしながら、赤穂国元の藩士たちから成る後者は、仇討ちをすることで自身の武士としての在り様を社会に示すことを意図しており、その後の他家への就職活動を有利に進めようという思惑まで働いていたと憶測することもできる。同じ仇討ち派であっても、立場により、温度差があったことは否定できないのである。

このように、同じ状況に追い込まれた赤穂藩藩士の間にあってさえ、武士道に対する認識には大きな差があった。これを忠義の程度の差と見ることもできるだろうが、私は個々人の認識に多様性があったと捉える方が当っているような気がする。彼らは戦闘員と言うより、当時、既に地方公務員だったのである。いきなり、職業軍人として実戦に赴くかどうか選択を迫られても、戦闘員としての自覚、資質がない限り、一元的な武士道観を押し付けられるのは不本意だったに違いない。

武士道とは、本来、個々の武士の生きる規範となるべき道徳律であって、主君だけに対する忠義であったり、主君に絶対服従を強要する滅私奉公的な思想であったりするものではない。『葉隠』おける「武士道とは死ぬこととみつけたり」という文句は、一旦死んだ気になれば、何物をも恐れることなく、仕事に励むことができることを示唆しているのである。武士道と言うより、むしろ、「公務員心得」とでも言った方が、当っているかもしれない。

武士道という稀有な道徳律、或は倫理観を持った武士が公務員として勤務する江戸期、彼らは理想的な官僚社会を現出するはずであった。にもかかわらず、汚職、贈賄の悪癖は絶えることがなかった。一概に武士であると言っても、その職責を正しく認識しない不良分子が存在したのだろう。しかしながら、一般の武士たちは、己の職分を可能な限り、正義を以って勤めていたのである。

元禄泰平時代、赤穂浪士による討入りはセンセーショナルな波紋を社会にもたらした。システムとしての武士道が形骸化した当時の社会にあって、最も泥臭い、分かり易い武士道を示した赤穂浪士が社会に与えた影響は大きい。一旦は、武士道とは如何にあるべきかが、盛んに論じられたものの、これ以後、武士道は更に形骸化し、規範としての役割さえ果さなくなっていくのである。

日本人が論じた日本人論として最も評価されている『武士道』の著者新渡戸稲造は、明治維新以後、日本人は、生きる規範を見失ったのではないかと書いている。武士という階級がなくなったことは、厳しい道徳律、或は倫理観が存在することを社会に示す人々がいなくなったことを意味した。四民平等は結構であるが、これが庶民の規範を上昇させたのではなく、常識的な規範の基準を引き下げる結果をもたらしたと考えているのである。

そして、刃傷事件から実に300年が経過した現在、日本は未曽有の社会的危機に見舞われている。これを単なる経済不況と捉えるのは、間違っているのではないだろうか。バブル経済崩壊後、日本人は再び生きる規範としての武士道を見失ったのかもしれない。

先頭に戻る

討入り情報戦始末記

今回の『七段目祇園一力茶屋の場』のイヤホンガイドを担当していたのは、おくだ健太郎氏だったが、彼は『忠臣蔵』の出来不出来を、寺岡平右衛門の善し悪しで判断するのだという。寺岡平右衛門は、実在の人物である寺坂吉右衛門をモデルにしている。この寺坂吉右衛門は、討入り、本懐を遂げた後、一行とは別行動を取って行方知れずとなり、唯一切腹せず生き残った人物として知られている。

劇中は、おかるの兄である平右衛門は、足軽という低い身分ではあるものの、亡君を慕う気持ちは尋常ではなく、自身も仇討ちに参加したいと切望している。刃傷事件の折、平右衛門は飛脚として北国に出張していた。そこで、主君の切腹を知り、家中も散り散りと聞き及んで無念でならず、師直を討ち取ろうと単独で鎌倉に赴いたが、警備が固くこれを断念、一先ず立ち戻ったという忠義の男である。妹を殺してまで、草履取りとしてでも、荷物持ちとしてでも良いから、仇討ちに参加したいと考える平右衛門という男に感情移入することができ、由良之助に仇討ち参加の許しを得たその時に、既に死亡している勘平の分まで、存分に活躍して欲しいと思うことができたなら、その『忠臣蔵』は上出来であると、おくだ氏は判断するのだというのである。

今回平右衛門を演じたのは団十郎だった。おかるとの間抜けた兄妹ぶりは楽しいものだったし、玉三郎のおかるが絶品だったことを差し引いても、団十郎の平右衛門は、勘平の分まで頑張ってくれと、声をかけたくなるほどの上出来だったと思う。おくだ氏も、団十郎の平右衛門には、満足しただろうと推察する。つまり、今回の『忠臣蔵』は上出来だったということだ。私は、おくだ氏の偏屈ぶりに、深い感銘を受けずにはいられなかった。できるものなら、お友だちになりたいもんだと思う。来月の歌舞伎座でも、是非ともおくだ氏の解説を伺いたいものだと期待している。

そのおくだ氏に依れば、赤穂浪士の仇討ちは、情報戦だったのではないかという。『忠臣蔵』では47人の浪士たちとその周辺に話題が集中するため、その他の元藩士らの行動については言及されることは少ない。江戸期、武士階級の人口は5%程度だった。赤穂の人口は、当時約20,000人。平右衛門などの足軽クラスまで含めると、家臣は1.000人に昇る。刃傷事件後に城の明け渡しか篭城か、或は仇討ちかを決めるために行われたとされている、所謂「大評定」に集合したのは300人程度だったと言われている。もっとも、史実として、赤穂城には、これだけの人数が会議を開くだけの広間は存在しなかったらしい。とは言え、その中の47人だけが、仇討ちに参加したわけだが、47人だけで仇討ちの計画が進められたと考えることは不可能である。

他の元藩士たちとて、仇討ちには無関心ではいられなかったはずである。平右衛門がそうであったように、是非とも仇討ちに参加したい、参加しないまでも協力したいと考えたに違いないのである。また、劇中の家老斧九太夫のように、何らかの作為をもって仇討ちの情報を探る人物が在っても不思議ではない。しかしながら、12月14日の討入りは、全くの奇襲攻撃だった。吉良邸では用心をしていたとは言え、この日に討入りがあるという情報を掴んではいなかったのである。

当時、将軍は五代綱吉で、その側近には柳沢吉保が控えていた。如何なる小説、芝居、その他の媒体にあっても、柳沢吉保は極めて優秀な情報収集能力に長けた特殊部隊を持っていることが描かれている。実際のところはどうだったのか確かめる術はないが、将軍の側用人として権力の中心にあった人物が、情報収集という部門において、抜かりのあるはずなどない。件の刃傷事件の折り、浅野内匠頭の即日切腹を将軍に進言したのも吉保であると伝えられていることを考えると、吉保が討入りに無関心だったとは思えない。その吉保が、討入りの期日を掴んでいなかったとするなら、当時一体誰が知ることができただろうか。

吉保の特殊部隊のエージェントがその技能の全てをかけて情報収集に当ったにもかかわらず、討入りの情報は一切漏れることがなかった。つまり、赤穂の元藩士たちを初めとする関係者の全てが、沈黙を守ったのである。刃傷事件から討入りまで、実に1年9ヶ月に及ぶ期間を、元藩士たちは討入った浪士たちと同じように、情報戦を戦っていたと言えるのではないだろうか。考えてみると、対象がはっきりしている情報であるだけに、漏れなかったという事実には、極めて強固な意志を感じないではいられない。内匠頭が最終的に如何に短慮な行動を起こした不徳の主君であったとしても、その家臣たちは忠義の名に恥じない立派な武士だったのだということは、47人の浪士たちよりも、これを陰で支えた元藩士たちが明白に示しているのである。

おくだ氏は、解説の中で下記の句を紹介してくれた。誰しも各々の事情があり、討入りに参加することができなかった元藩士たちが、大勢在った。討入るとなれば死なねばならない。元藩士たちに、その事実に躊躇う気持ちがなかったとは言えないだろう。しかしながら、私は、彼らもまた武士としての本分を果したのだと考えている。生き残った寺坂吉右衛門もまた、その後の人生を彼らの一人として生きたのかもしれない。ちょっと哀しいけどね。幕。(2002,10,5)

「寄せ鍋や、討ち入らなかった者同士」


先頭に戻る