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1934(昭和9)年から1941(昭和16)年にかけて連作された、真山青果の新歌舞伎。全10編22幕43場の歴史劇。今回の『南部坂雪の別れ』は、1938(昭和13)年歌舞伎座で初演された。徳川幕府は、実際に起こった事件事故を脚色上演することを、厳しく禁止していた。このため、歌舞伎の劇作家たちは、登場人物の名前や、時代設定を変更したりして、当局の追求を逃れ、上演を重ねてきた。『元禄忠臣蔵』は、言うまでもなく、赤穂浪士討入り事件を題材とした歴史物だが、昭和になってから書かれた作品なので、徳川幕府の制限は及ばず、関係者は全て実名で登場する。

所謂『忠臣蔵』、播州赤穂藩主浅野内匠頭の刃傷事件を題材にした作品だが、サイドストーリィとしてではなく、真っ向勝負で事件そのものを描いている。前述したように、7年間に渡って連作された長編歴史物だが、第一作として上演されたのは『大石最後の一日』で、文字通り全編の最後に当る部分である。これが好評だったため、他の部分が書き継がれ、今回の『南部坂雪の別れ』も生まれることになった。

作者の真山青果の作品は、台詞劇と呼ばれるくらいくどい台詞に特徴があり、役者の動きが少ないため、少々退屈な感がある。今回も、羽倉斎宮(はぐらいつき)という嫌味な親父が、懇々と説教を垂れる場面が、しつこく描かれており、大石内臓助が仇討ちをする気でいることを熟知している観客にとっては、些か五月蝿いほどだった。国学者として知られる斎宮は、大大和心(おおやまとごころ)の発揚が見たい。斎宮はそう言うが、如何に彼が赤穂浪士を支援しようとも、彼は当事者ではないのである。元禄という時代に退屈しきった世間の人々と同じ程度に、討入りに対しては傍観者でしかない斎宮に、事実を知らないとは言え、あそこまで罵詈雑言を吐くのは如何なものかと思わざるを得ない。

斎宮は、仇討ちの同志の一人になりたかったのかもしれないと思う。劇中、斎宮は、内蔵助に対して、憎しみを思わせるほど。仇討ちへの関心を示す。これは、最早、羨望ではないだろうか。彼は、ただの傍観者であることにも、納得できないでいる。大大和心を発揚する人物は、自分であるはずだったのにと、斎宮は考えたのかもしれない。もし、彼が、傍観者である自身を冷静に自覚していたなら、内蔵助の本心を或は分析できたのではないだろうか。この辺りが、国学者として名を馳せながら、その研究にはオリジナリティを見出せない、斎宮の人間的な限界だったのかもしれない。

仇討ちを果した後、斎宮はどのような感慨を持ったのかを、是非とも知りたいものだと思う。真山青果が、その時の斎宮をどのように描いているのか、または描いていないのかを私は知らない。他人を罵倒する時には、慎重を期したいものだと、改めてそう思った。もっとも、罵倒したいほどの事件がないことを望む気持ちの方が、強いことは言うまでもない。

さて、内蔵助の焼香をしたいという申し出に、瑶泉院は拒絶を以って応える。亡き殿も、お許しにならないはずだと、彼女は言うのである。この場面は、私にニーチェの評判の悪い妹エリザベートを思い出させた。発狂の果てに死亡した兄ニーチェの思想を、自身に都合の良いように利用し、当時の権力者であったヒトラーに媚びることまでしたエリザベートは、常に兄の代弁者を装っていた。瑶泉院は、エリザベートと同じく、私に家族が信用できないことを、再認識させたのである。

結果的に、彼女は間違っていたことを認めるが、通常こうした言葉は、検証されることなく受け入れられるべくして受け入れられてしまうのである。先に述べたように、他人を罵倒する時には慎重になる必要がある以上に、死した者の心情を代弁することは許されない。この芝居で、最も印象深かった人物は、瑶泉院だったのではないだろうか人としての尊厳を貶めるような言動を、悲劇的な大名の奥方の心情の発露としてであれ、許容することはできない。結局のところ、瑶泉院もまた、斎宮と同じく、仇討ちの傍観者でしかなかったのである。幕。(2002,4,6)


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